睡眠薬を飲む前に知っておきたい睡眠の基礎知識

目次

睡眠薬を飲む前に知っておきたい睡眠の基礎知識

はじめに

睡眠は、高等脊椎動物では普遍的にみられる現象である。しかし考えてみれば、これは不思議なことである。 野生の厳しい環境を考えてみてほしい。睡眠中、動物は外敵に対してまったくの無防備になり、しかも活動もできない。だから、もし睡眠をとる必要のない動物が進化の過程で生まれていたら、生存競争を勝ち抜くうえで圧倒的に有利だったはずである。

デパス(エチゾラム)の通販サイトは、こちら↓

お薬館

睡眠を必要としない生物が地球を支配していてもおかしくはなかったのだ。しかし、実際にはそうはならなかった。水中のような特殊な環境で暮らすイルカや、長時間を飛行する渡り鳥でさえも、睡眠の呪縛から逃れることはできなかったのである。 水中で泳ぎながら、あるいは飛行中に睡眠することはそれこそ命にかかわる。彼らは、特殊な環境で眠るために睡眠を進化させるという方法はとったが、眠ることを省くには至らなかった。彼らはそれこそ命がけで眠るのである。 このことからだけでも、睡眠は進化の過程でどうしても省くことのできなかった非常に重要な機能であることがわかると思う。「惰眠をむさぼる」という言葉があるが、睡眠は決して無駄なものではなく、動物が生存するために必須の機能であり、とくに脳という高度な情報処理機能を維持するためには絶対に必要なものなのだ。 一方で、睡眠や夢は神秘的なものでもある。とくに夢は、昔から宗教や芸術、文学の題材ともなり、心理学理論にも影響を与えつづけてきた。にもかかわらず、現代人のわれわれは「睡眠」に関してあまりにも無関心ではないだろうか。睡眠は単なる「休息」の時間と勝手にかたづけていないだろうか。たしかに睡眠は休息の時間でもあるが、それは睡眠がもっている職能のごく一部にすぎないのだ。 私も睡眠の研究を始めるまでは、眠りについてかなりおろそかに考えていたと思う。限られた人生なのだから、睡眠を犠牲にしてでもほかのことをしたほうか有意義だと思っていた。しかし、睡眠の研究を始めてからはその不思議さに研究対象ということ以上にひきつけられることになり、睡眠を大切にするようになった。

睡眠は外部からの刺激がなくなったことによって起こる受動的な状態と考えがちである。しかし、実は睡眠は脳が積極的に生みだす状態であり、身体の、とくに脳のメンテナンスに必須の職能であることが明らかになってきている。このブログでは、睡眠が私たちの身体や脳の機能とどのように問わっているか、どのような役割をはたしているのか、そしてどのようなメカニズムで引き起こされているのかを解説し、睡眠とは何か、そして覚醒とは何かということを解き明かしていきたいと思う。 睡眠の科学はまだ末成熟な学問であり、解決すべきことも多い。なにしろ「なぜ眠る必要があるのか」という問いに対してすら、明確な答えが見つかっていないのだ。しかし、近年、睡眠と覚醒を制御する脳内機構が次第に明らかにされつつある。こうした知識は、われわれが生きるうえでプラスになることも多いと思う。 睡眠は勁物の生存や生活に深く関わる生理現象であるにもかかわらず、分子生物学が隆盛をきわめた20世紀の最後の20年間にも、睡眠に関する理解には大きな進歩がみられなかった。しかし、20世紀の終わりに「オレキシン」という物質の発見があったことを契機に、睡眠科学は急速に進歩した。その生理機能の解明をめざして研究を進めていくうちに、この脳内物質が動物の覚醒を制御するうえではたす巧妙なメカニズムに行きあたった。それは、従来の睡眠・覚醒という概念だけではなく、動物の行動や意識、感情などをも包括する、適切な覚醒状態を維持するためのシステムであった。 ヒトはその生涯の約3分の1を限って過ごす。人生を約75年とすると、一生で実に25年間もの時間を睡眠に費やすわけである。これは食事に費やす時間と比較してもずっと長い。しかし、近年、ヒトの生活が多様化し、情報化していくなかで睡眠にケえられる時間も時間帯も不規則になり、不足気味になり、質的にも問題が出てきている。だからこそ、睡眠に目を向けていただきたいと思う。 このブログは系統的な睡眠学の本ではなく、睡眠と覚醒のメカニズムをわかりやすく説明した読みものとすることを心がけた。しかし、理解するためにかんたんな神経科学の知識は必要だと思われるので、それらの知識はコラムとして解説するか、あるいは章の中の随所にちりばめる形にした。そのうえで、近年急速に明らかになってきた睡眠と覚醒の科学を説いていくことにした。

なぜ眠るのか?

未だに解けない謎。記憶の定着に睡眠が果たす役割。

ヒトはなぜ眠るのか。どんな脳内物質やメカニズムが眠りを誘い、あるいは覚醒をうながし、私たちの眠りを支配しているのか。このきわめて単純な問いに、現在の脳科学や神経科学はいまだ決定的な解答を出すことができないでいる。そして科学や文明がこれほど発達した現代でも、いや、そんな現代だからこそ、多くの人だちか不眠に苦しんでいる。 私たちは眠りを、受動的な休息の時間と考えている。意識というものは脳かつくりだしていることを、現代人であれば誰もが知っている。睡眠中には、その意識がなくなることも知っている。ということは、睡眠中には脳が機能を停ふLしているのだろうか。しかし、睡眠中にも意識が「夢」という奇妙な迷宮に迷い込むことかある。夢にはいったいどんな役割かあるのだろうか。 そもそも、私たちは何のために眠るのであろうか。眠らずに活動をつづけていると眠気によって心身の機能が低下してくる。しかし睡眠をとることによって、低下していた作業効率が回復する。こうしたことを私たちは毎日‥実感しているにもかかわらず、睡眠をとっている間に脳の中で生物学的・神経科学的にどのような変化が起こっているのかは、いまだに多くの部分が謎に包まれている。そもそも、どうして眠らないとならないのかという疑問への、科学的に決定的な答えすらまだないのである。 これは睡眠が高等動物に不可欠なものであることを考えると、驚くべきことである。たとえば「どうして食べなければいけないの?」という質問には多くの人が簡単に答えられるだろう。では「どうして眠らなければいけないの?」という質問に対しては、あなたならどう答えるだろう。「休むため」だろうか?それならば、眠らずにゆったりと横になって休息するのではだめなのだろうか?実は、この非常にシンプルかつ根源的な疑問に対しての、確実な答えはまだ出されていないのだ。唯一確実なのは「眠気を追い払うため」という答えのみ。これではまるで禅問答である。 このブログは、このように謎に包まれている睡眠について、現時点でわかっている「睡眠と覚醒のシステム」をわかりやすく解説することを目的としている。一部は仮説も交えることになると思うが、最新の情報を盛り込みながら、睡眠についてのこの素朴で根源的な疑問にもできるかぎり答えを与えていこう。 まずは、睡眠に関するくわしい脳のメカニズムに踏み込む前に、この章では睡眠によって変化する心身の職能について述べ、睡眠の大切さを考えてみよう。

眠らないとどうなる?

まず、眠らないとどうなるのか、ということについて考えてみよう。 かつて睡眠の研究者たちは、こう考えた。「睡眠の機能を知るためには睡眠を奪ってしまえばいい」。睡眠をとりさることによって起こってくる変調があれば、そのことから睡眠の機能を推察することができるだろうというわけだ。これがあとで述べる「断眠実験」の発想である。しかし、睡眠の不足からくる変調は、私たちの日常でもよく経験することではないだろうか。 私たちが眠りを意志でコントロールしようとしても、限界がある。1〜2日は眠らずに過ごせたとしても、いずれは絶対に抵抗できない眠気に襲われ、眠りに落ちてしまう。いくら断眠をしようとしても、いつかは必ず眠ってしまう。睡眠に対する欲求は食事に対するそれと同様、生きるために何か何でもかなえなければならないのだ(図1‐1)。

人も動物も睡眠への欲求には勝てない

人も動物も睡眠への欲求には勝てない

睡眠不足の翌日、本調子でないことはほとんどの人が経験しているはずである。もっとも顕著に現れるのは、注意力の著しい低下だ。一晩徹夜すると、かなり酒に酔ったときと同等の注意力の低下がみられる。徹夜して運転しても飲酒運転のように罰せられることはないが、それと同程度に危険なのだ。1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号の事故や1989年のアラスカ沖タンカー事故など、睡眠の問題が大きな悲劇を生むことすらめずらしくはない。 また、睡眠不足は冷静な判断力も鈍らせる。ときに警察の過酷な取り調べが冤罪を生んでしまうことがあるのも、容疑者の睡眠不足が関わっているはずだ。ある種の宗教的儀式にもみられるように、睡眠を奪うことによって白白させることができる。ヒトは眠りを奪われると判断力を失い、眠りの代償にどんなことでも話すのだ。

脳は睡眠中に洗浄されている

多くの人は、「睡眠イコール休息だから、休まないことによって調子か悪くなるのだ」と考えていると思う。つまり睡眠はあくまでも受動的な休息状態であるという考えである。だが、もしそれが本当なら、口を閉じて安静にしていれば、睡眠と同じ効果が得られるはずである。不眠症でも、夜中に何回目が覚めても、あるいは極端な話、まったく眠らなくても、目をつむって横になっていれば睡眠と同じ効果が得られるはずである。しかし実際にはそうはならない。限りが浅かったり、睡眠時間が十分にとれなかったりすれば、健康な眠りと同じ効果は期待できない。なぜならのちに述べるように睡眠中は心身が覚醒状態とはまったく異なる生理的状態にあり、それが心身の健康を維持するために非常に重要なのである。 また、睡眠には身体を休息させるのみではなく、脳の休息、さらには、能動的に脳のメンテナンス作業と情報の整理をする役割かあると考えられている。たとえば、脳では、老廃物の処理は配流だけではなく、脳脊髄液とよばれる細胞間隙を満たす液体の流れが行っているのであるが、その処理はほとんどかノンレム睡眠中に行われるという結果も示されている。2012年にロチェスター大学のマイケン・ネーデルガードらのグループは、ダリア細胞が血液の周囲に脳脊髄液を循環させる水路のような経路(血管周囲腔)をつくっていて、そこで脳細胞への栄養供給と老廃物の排出を行う「グリンパティックシステム」の存在を示した。他の組織では老廃物の処理はリンパ系が行っているが、リンパ系の存在しない脳組織では、ダリア細胞がかわりに行っているというわけだ。 そして翌年には、このシステムが機能するのは、主にノンレム睡眠のときであることが示された。つまり、血管周囲腔が拡大して、この「水路」を洗い流すように脳脊髄液が流れるのは、ノンレム睡眠中なのである。 マウスを使った研究では、眠りを断つことにより、アルツハイマー病の原因であるアミロイドβというタンパク質が、記憶をつかさどる海馬という部分に蓄積することも報告されている。アミロイドβタンパク質は覚醒時に脳内で蓄積し、睡眠時に洗い流されて少なくなるというのだ。 さらに、ヒトにおいては睡眠不足がメタボリックシンドローム、ひいては心血管疾患や代謝異常のリスク増加に関連していることも指摘されている。コロンビア入学の研究チームの発表(2004年)では、32歳から59歳までの1万8000人を調査したところ、平均睡眠時間が6時間の人は、望ましい睡眠時間とされている7時間の人に比べて23%も肥満になる確率が高く、睡眠時間が5時間の人は50%、睡眠時間が4時間以下の人は73%も肥満になる確率が高くなるという。体重や食欲は、身体の恒常性を制御するメカニズムの影響を受けているのだが、睡眠はこれらの機能の管理にも重要な役割をはたしていることがわかる。健康な人でも睡眠が不足すると血糖値のコントロールが乱れるという報告もある。このように睡眠は健康を維持するために不可欠な現象なのである。

動物実験から明らかになった睡眠の必要性

それでは、睡眠不足などではなく、完全に眠らないとどうなるのだろうか?眠りの機能を調べるために、動物の睡眠を取り去る「断眠実験」が古くから行われてきた。結論から述べてしまうと、完全に睡眠をとらない状態が続くと最終的には、動物は疲労状態からくる感染症やそれにともなう多臓器不全で死亡する。 1980年代にシカゴ大学のレヒトシャッヘンらのグループは、ラットを断眠させることによって起こる変化を観察した。断眠1週間程度では目立った変化はみられなかったが、2週間になると、断眠ラットの皮膚からは毛が抜け、潰瘍が形成されてきた。運動性が低下し、体温調節のメカニズムに変調がみられるため、体温が下がってきた。体温を維持するためにケージの隅で丸まって過ごすようになった。さらに、食べる量は増えているにもかかわらず体重減少がみられた。このことから、睡眠をとらないと、体温や体重の恒常性の維持機構や体温の調節機構に異常をきたすことが推測される。これらの機能は主に脳の視床下部という部分がはたしている機能である。つまり断眠は、視床下部の恒常性維持機構に悪影響を与えるのだ。いくらじっとして休息をとっていても、睡眠をとらなければ身体機能は決して回復しない。そして断眠後3〜4週間で、ラットは感染症のために次々と死んでいくのだ。体内に住み着いている常在細菌による感染症で敗血症(血液の中で病原菌が増殖を起こす危険な状態)を起こして死ぬのである。こうした本来は病原性をもたない微生物による感染症は、日和見感染とよばれ、免疫系による感染防御機能が択なわれたときに起こる。つまり、断眠したラットでは、免疫機能が失調をきたしたと考えられる。睡眠を断つことは免疫系の機能にも重篤な影響を与えるのである。 こんなことを聞くと、仕事や受験勉強で忙しく、睡眠不足を実感している方は心配になるかもしれない。安心していただきたいのは、このようなことは無理矢理ラットを断眠させて初めてみられるものであることだ。それも1週間という期間をおいて初めて影響が明らかになってくる。われわれは通常、断眠しようとしても重い障害をきたす前に必ず眠ってしまうので、睡眠不足で死ぬことはない(ただし、致死性家族性不眠症というまれな病気では、脳にプリオンという異常なタンパク質がたまり、視床という部分が破壊される結果、重篤な不眠になり、他の神経症状もきたして最終的に死に至る)。また、このようにひどい断眠をしたラットも死に至る前に睡眠をとらせれば、それによってやがて完全に回復する。このことから、睡眠は絶対にとらなくてはならないものではあるが、脳や身体はある程度、睡眠欠乏に耐える許容度や柔軟性をもっていることがわかる。多少ならば「無理がきく」のだ。

最も長く眠らなかったヒトのはなし

以上の話は実験動物の例であるが、ヒトでは長く睡眠をとらないとどのようなことが起こるのだろうか?

ランディ・ガードナーは、カフェインなどの興奮剤を一切使用せずにH日間連続で覚醒しつづけた記録をもっている。1964年、当時17歳の高校生だったランディは、クリスマス休暇の自由研究のために「不眠記録への挑戦」を企てた。その結果、それまでトムこフウンズによって保持されていた260時間の断眠記録を破って、264時間(11日間)という不眠の記録を府立した。ランディの試みを価値あるものにしたのは、その挑戦の後半の数日間がスタンフオード大学の著名な睡眠研究者であるウィリアム・デメント博士の詳細な観察のもとに行われたことである。その後、この記録を破ったと主張する者もたくさん現れたが、実証が難しく、著名な研究者により詳細に記録されたランディの断眠は現在でも睡眠研究のうえで重要なデータとなっている。 彼は1964年12月28日の午前6時に目覚め、その後、年を越えても一睡もしないで11日間起きていた。断眠後2日目になると彼は怒りっぽくなり、体・調不良も訴え、記憶に障害がみられるようになった。集中力がなくなり、テレビを見ることも困難になったという。4日目には妄想をきたすようになり、ひどい疲労感を訴えた。7日目には彼は震えを呈し、言語障害が認められた。しかし、これらの障害は睡眠研究の専門家か予測していたものほど重篤ではなかった。多くの専門家はラットなどを用いた動物実験の結果をもとに、長期の断眠により、精神に異常をきたすか、あるいは重篤な身体症状が出ると警告していたのである。11日間の断眠後、ランディはようやく眠りにつくと、連続して15時間眠った。その後、23時間覚醒し、10時間半眠った。1週間後には完全にもとの生活リズムを取り戻し、後遺症を残すこともなかった。断眠によってさまざまな変調は起こったが、眠ることによって、完全に回復したのだ。このことからも、眠りは絶対に必要なものではあるが、その必要性はあるていど融通がきく柔軟なものであることがわかる。しかし、だからといって、誰もがむやみに断眠に挑戦するべきではないのはもちろんである。彼は数少ない例外かもしれないのだ。 そこでもう一例、長時間眠らずにいた有名な人物を紹介しよう。ディスクジョッキーのピーター・トリップは1959年に9日間にわたり、不眠でラジオの放送を行った。小児麻痺救済の募金集めのために200時間一睡もしない不眠マラソンに挑戦したのである。3日目になると、彼は幻覚や妄想をきたすようになり、意味不明なことを話すようになっていた。放送が終わりに近づくにつれて妄想や幻覚は顕著になっていった。

これはある種の精神疾患のような状態である。このように、長期の断眠は、精神職能に変調をきたすのだ。 ランディ・ガードナーやピーター・トリップのケースは例外的に長い断眠であるが、ここまでではなくても、極度の睡眠不足におちいったヒトには、非常に短い睡眠、つまりマイクロスリーブが現れてくる。ほんの数秒間、あるいはもっと短い.瞬の間だけ眠りにおちいる現象である。みなさんも仕事や試験勉強などで徹夜をした翌日、一瞬眠ってしまった、などという経験があるのではないだろうか。それがマイクロスリーブである。11日間にもわたって断眠しても脳に障害が残らなかったのは、このマイクロスリープがかろうじて脳の機能を維持したからとも考えられるのである。

ノンレム睡眠とレム睡眠

私たちが「睡眠」と1ロにいうときは、ノンレム(NON‐REM)睡眠とレム(REM=Rapid EyeMovement)睡眠というまったく違う状態をひとくくりにしている。ノンレム睡眠を深い眠り、レム睡眠を浅い眠りという人もいるが、これは少々乱暴である。なぜなら生浬学的にみると、脳の状態からも全身の状態からも、ノンレム睡眠とレム睡眠はまったく違うものだからである。覚醒とノンレム睡眠が違うものであるのと同じ程度、あるいはそれ以上に、ノンレム睡眠とレム睡眠は異なるものなのである。この2つの睡眠の話はこれからこのブログでたびたび出てくるので、ここでノンレム睡眠とレム睡眠の違いについて筒単に説明しておくことにしよう。 ヒトは眠るとまず、ノンレム睡眠に入る(図1‐2)。ノンレム睡眠のときは、大脳皮質のニューロン(神経細胞)の活動が低下して、だんだんと同期して発火するようになる。より正確に述べれば、神経細胞が発火を止めるOFF相と、バースト状に発火するON相が繰り返し現れるのであるが、このON相か同じタイミングで揃ってみられるようになる。眠りが深いほど、この同期レベルは高くなり、まるで大脳皮質のニューロン群が、スポーツイベントなどで観客がみせるウェーブのように、揃って発火することを繰り返すようになる。これは文字通り、脳が「スリープモード」に入ったことを意味する。

健康的な成人の睡眠図

健康的な成人の睡眠図

ところがしばらく(60〜90分ほど)経つと、なぜか脳はまた活動を高める。同期した発火をやめて、大脳皮質のニューロンはそれぞれが固有の発火をみせるようになる。これかレム睡眠である。脳は覚醒時と同様か、あるいはそれ以上に、強く活動をしている。しかし感覚系や運動系が遮断されているため、身体は眠った状態にある。感覚系を介して脳に伝えられるべき情報は、大脳の深部にある「視床」とよばれる情報の中継点を介する。レム睡眠時には、炭俵での情報伝達が遮断されているのだ。逆に、脳から運動系を介して全身の筋肉に伝えられる情報は、脊髄のレベルでカットされている。つまりレム睡眠時は、脳へのインプット(感覚)と脳からのアウトプット(運動)が、インターフェースのレベルで遮断されてしまっていることになる。いわば「オフライン」の状態といってもよいだろう。 インプットやアウトプットを遮断しなくてはならない理由は大脳の機能にあるらしい。レム睡眠時、大脳皮質は覚醒時よりもむしろ強く活動している。この状態では、脳を外界と遮断しておかなければ、身体の機能が暴走して、限っていながら動きだしてしまうだろう。また、実験的にヒトをレム睡眠の最中で強制的に起こしてみると、ほとんどの場合、被験者は「夢を見ていた」という。つまり、レム睡眠の時には脳の強い活動の反映として夢を見るのだ。 このように、私たちが眠っている間にも、脳はまったく異なる2つの状態(ノンレム睡眠とレム睡眠)を規則正しく繰り返しているのである。

深まるレム睡眠の謎

それにしてもなぜ脳は睡眠中に、わざわざ複雑な手順をとってまでレム睡眠という状態をつくりだし、活動を高めるのだろうか。当然の疑問である。そこで、前に述べた断眠実験を応用して、レム睡眠のみを選択的に除去しようとする実験か多く行われた。しかし、実際にはレム睡眠のみを除去するのは困難である。通常、レム睡眠はノンレム睡眠がしばらく先行してから初めて現れるが、レム睡眠のみを除去するには、ポリソムノグラフィーという装置で観察しながらレム睡眠に入った瞬間に動物を強制的に覚醒させる、ということを行う。ところが、これを繰り返していると、動物がレム睡眠に入るまでの時間(レム潜時)がだんだん短くなっていき、やがては睡眠に落ちた直後にレム睡眠が現れるようになってしまう。そのため、睡眠じたいを取り除いたのと同じことになってしまうのである。 前に述べたディスクジョッキーのピーター・トリップは断眠のあとで眠ったとき、通常よりもはるかに早くレム睡眠に入り、しかもそれが長時間つづいたという。このことは、ヒトには睡眠全体だけではなく、レム睡眠の恒常性を維持しようとする機構もあることを示している。つまりレム睡眠の不足を次のチャンス(睡眠)で補おうとするのだ。このことからも、レム睡眠にはノンレム睡眠とは別の機能かおることが推測される。もしレム睡眠が「浅い眠り」なら断眠後には眠りを取り戻すために「深い眠り」が現れ、レム睡眠はおさえられるはずである。しかし、実際にはその逆なのだ。 もう1つ、レム睡眠に関する興味深い実験を紹介しよう。この実験は1970年代にスタンフオード入学の学生たちによって企画され、遂行されたものである。彼らは、当時「睡眠と夢」というカリキュラムを選択しており、その教程の一環として、次のような研究を行った。 前述のようにヒトではレム睡眠は、数十分にわたるノンレム睡眠ののちに初めて現れ、レム睡眠が終わると次のノンレム睡眠に移る。そして、レム睡眠時には脳が活発に活動している。彼らは、レム睡眠の意義について以下のような仮説を立てた。「レム睡眠は、前後のノンレム睡眠をつないで、ひとまとまりの長い睡眠を実現するものと考えられる」。ずっとノンレム睡眠をとり続けることは何らかの理由でできないが、レム睡眠という覚醒に似た「脳の活動状態」を挟むことで、長い睡眠がとれるのではないかと考えたわけだ。つまり、レム睡眠が「のりしろ」のようにノンレム睡眠をつなぐことにより、覚醒せずに長い睡眠をとることかできる?。 もしこの説が正しければ、ノンレム睡眠のあとに覚醒があれば、レム睡眠は必要なくなるということになる。この仮説を検証するため、彼らは、60分覚醒して30分眠ることを繰り返す、という実験を考えた。レム睡眠がみられるのは、ノンレム睡眠が90分前後続いてからであることを思い出してほしい。したがって、仮にレム睡眠が彼らの考えたようにノンレム睡眠をつなぐだけのものであるならば、30分刻みの眠りにはレム睡眠は必要ないので、現れないと予想される。 被験者になった18歳の女子学生、ジョイ・ケリーは、この研究の期間をずっと、大学の睡眠実験室で過ごした。ポリソムノグラフィーという装置で睡眠状態を調べられつつ、30分間ベッドに入り、その後の60分は覚醒している……という生活を、6日間続けたのである。この研究は、ある日の夜中(午前2時田分)から開始された。彼女はきわめてよくこの睡眠スケジュールに適応し、実験中に眠れなかったのは91回の(30分間の)睡眠期間のうち、1回だけだったという。 第1日目には予想通り、レム睡眠がまったく現れなかった。しかし、実験を続けていくとやがて大服後、2〜3分後に現れるようになり、ときには入眠後すぐに現れるようになったのである。彼女は、毎日5時間以七の十分な睡眠をとっているようにみえたが、第1日にレム睡眠がとれなかったため、それを取り戻すかのようにレム睡眠のスケジュールか書き換えられたようにみえる。つまり、レム睡眠には独自の恒常性を保つメカニズムがあり、「ノンレム睡眠の隙間を埋める」という以上のなんらかの重要な生理的機能をもっていることが推測されたことになる。 ではレム睡眠はなぜ必要なのだろうか。近年まで、レム睡眠時は夢をさかんに見ることから、記憶の整理に関わっているとされてきたが、最近の研究によって、記憶の固定や整理にはノンレム睡眠が大きく関わっていることがわかってきた。レム睡眠の職能はますます謎めいたものになっている。しかし、近年はレム睡眠の制御メカニズムがかなりの部分まで明らかにされてきており、強制的にレム睡眠をなくすことも可能になってきている。その役割が明らかになるときも遠くはないと思う。

レム睡眠と夢のふしぎ

「君がどんなに遠い夢を見ても、君自身が可能性を信じるかぎりそれは手の届くところにある」 ヘルマン・ヘッセの言葉である。大志をいだき、成功を信じて努力する若者に向けられたすばらしい言葉だ。このように「夢」という語が「希望」や「願望」の意味で使われることは多い。みずからの願望が夢となって現れるという考えであろう。しかし、実際にはみなさんの夢は「怖い」あるいは「不安な」内容のものが多いのではないだろうか? いわゆる「夢らしい」夢はレム睡眠のときに見ているとされる。ただし浅いノンレム睡眠のときにも夢を見ていることがわかっている。レム睡眠時の夢は奇妙な内容で、感情をともなうようなストーリーであることか多い。対してノンレム睡眠時の夢は多くかシンプルな内容である。 レム睡眠時に見る夢は不思議で奇想天外なストーリーで構成されていることが多く、物理的、論理的におかしなことか起こる。また、誰かに追いかけられる、試験などで失敗する、大切にしている物が壊れるなど、不安や心配、恐怖などの感情と密接に関係する内容であることも多いようだ。ハーバード大学のアラン・ホブソンは、みすがらの夢日記を集め、夢の中のストーリーの特徴として、強い皆勤(恐怖や喜びなど)、非論理的なストーリー展開のほか、運動性という特徴をあげている。つまり夢の中では、自分がなんらかの運動をしていることが多いという。そして、これはレム睡眠時に脳幹の運動に関わる部分が活動しているからだという。このことは、のらに述べる運動学習、つまり手続き記憶(→表1-1)の強化となんらかの関係があるのかもしれない。 奇想天外なストーリーと、強い皆勤(楽しい、怖い、不安などの感情の動き)をともなうことから、夢は「未来を予見するもの」とか「何かの暗示」など、超自然的なものとしてとらえられることも多い。また、フロイトの夢理論の影響から、夢を「潜在的な、あるいは抑圧された欲求が現れたもの」として夢で見たストーリーの分析を試みようとする人もいる。しかし、神経科学者であるわれわれは、夢とは「レム睡眠中に脳が活動するために起こる一種の幻覚」であり、さらに極端には「レム睡眠中は脳機能のメンテナンスのために脳が活動する必要かおり、そのときに生じるノイズこそが夢である」ととらえている。たしかに不安か夢にいろいろな形で現れることがあるようだが、決して未来を暗示するような意味はないだろう。夢に出てくるのは、われわれの脳が過去に獲得した記憶の断片である。神経科学者や生理学者はストーリーよりも、夢がどうして生じるのか、その脳内のメカニズムに興味をもっている。不安に代表される情動が引き金になって、さまざまな記憶が連想的に引き出されてくることはあるが、そのストーリーじたいを分析することには、(神経科学者にとっては)大きな意味はないと考えるのである。そのため本吉でも、夢を引き起こすメカニズムについてはのちに触れるが、夢の心理学的な解釈について言及することはしない。

夢の科学的な分析を目指した精神科医フロイト

夢の科学的な分析を目指した精神科医フロイト

「チャレンジャー号」の悲劇も睡眠不足から

「眠らないですんだらどんなにいいだろう。1日7時間以上も多く時間を自由に使えるようになるのだから……」。試験前の切羽つまったときなど、誰しもこんなことを考えたことがあると思う。たしかに、眠りには、どこか消極的で受け身な印象がつきまとう。つまり、夜間は活動する必要がないから疲れた身体を体めているのであり、だからその間は無駄な時間を過ごしている、という解釈である。精神的に自分を律していれば、眠りの誘惑に負けることはない、という考え方もあるだろう。ナポレオンは睡眠時間について「3時間は勤勉、4時間は普通、5時間は怠惰」と語ったという。これは明らかに睡眠が「無駄」であるという思想の表れであろう。また、発明王エジソンも短時間の睡眠が自慢だったようだ。彼は部下に「睡眠とは時間の浪費にすぎない」とさえ言っていた。 .方で、アインシュタインは長時間睡眠者であり、1日10時間以上限っていたという。しかし、理論物理学の分野で多くの金字塔を打ち立てたアインシュタインが無駄な時間を過ごしてきたとは考えられない。すでにわかっていただけたと思うが、眠りとは、心身に必須の生理機能なのである。1986年、スベースシャトル「チャレンジャー号」は打ち上げからわずか73秒後に爆発するという悲劇に見舞われた。この事故の背景には、睡眠不足によるヒューマンエラーかあったといわれている。NASAのスタッフのように士気の高いエリート集団が打ち上げという一大イベントに向けて気を張っていても、睡眠不足には抗えなかったのだ。シェイクスピアも睡眠を大切にしていて、『マクベス』の中には「睡眠こそ、この世の饗宴における最高の滋養(主菜)である(Sleep,a chief nourisher in life’s feast)」との.節もある。これは非常にすばらしい言葉であり、睡眠の最中に、心身にブラスになる何かが起こっているということを見事に表現している、実際、眠りにまさる「癒し」はこの世に存在しないと思う。

眠るとゲームが上達した!

これまで、睡眠をとらないとどうなるかをみてきたが、ここからはもっと積極的に、睡眠によって得られる効果について考えていきたい。 試験前の勉強のとき、「寝ると忘れてしまうから寝ない」という人がいる。しかし、これは明らかに間違いである。睡眠は記憶を強化することか古くから知られているのだ。「起きて」過ごすか、「眠って」過ごすかによって、記憶の保持にどのような影響があるのか。1924年にジェンキンスとダレンバックによって報告された重要な論文がある。それは学習における睡眠の意義を示唆する、最初の研究成果となった。 彼らは健康なヒトを対象に、アルフアベットを組み合わせてつくった10の無意味な単語を午前10時に記憶させた。そのあとの1〜8時間を、覚醒している群と、就寝させた群をつくり、それぞれに覚えた無意味な単語を想起させるというテストを行った。その結果、睡眠をしていた群のほうが、覚醒していた群よりも単語の忘却がはるかに少なかったのである。 睡眠をとったほうが、記憶がより保持されるという実験結果は画期的なものだったが、その結果の考察に関しては、彼らはもう一歩踏み込むことができなかった。彼らは、睡眠中には覚醒時と比べて外部からの刺激が少ないので、記憶に干渉が起こらないために忘れにくいのだ、と解釈したのである。この説は「干渉説」とよばれている。 しかし、近年、睡眠中には記憶が保持されるだけでなく「強化される」ことが示されている。睡眠は記憶の強化・固定化に関わっているのだ。これは干渉説では説明ができない。 実は、このことを最初に述べたのは、クインティリアヌスという占代ローマ帝国の思想家である。2000年以Lも前に、すでに彼は次のように述べているのである。「うまく繰り返すことができなかったことも翌日に容易にできるようになっている。睡眠という、一見健忘を引き起こすと思われるときこそ、記憶を強化しているのだ」。実に先見的な考察である。みなさんも、スポーツや楽器などの練習をしていて、その日にはうまくならなかったのに、2〜3日後に突然上手にできるようになっていた、という経験はないだろうか。しかも、その間は練習をしていなかったのに、である。いったいなぜ上手になったのだろう?これには睡眠が深く関与しているらしい。 睡眠と記憶の関係については、いろいろな実験が行われている。たとえば、以下のようなものがある。多角形がモニターに映し出されている。被験者が手元のタッチパネルの上をペンでなぞると、モニターの上にペンと同じ軌道が描かれる。そうした実験装置を使って、被験者に多角形を一筆書きでなぞるという課題を与えるものだ。ところが、この装置はタッチパネルヘの入力に細工がしてあり、実際の多角形を90℃回転した図形をなぞると正確になぞれるようになっている。だから最初は、被験者はまったく正確になぞることはできないのだが、回数をこなしていくうちにできるようになっていく。テレビゲームがだんだんうまくできるようになるのと同じ要領で、正確に図形をなぞるために要する時間が少しずつ短縮していくのである。こうした「回収図形描写課題」を練習させたあと、一部の被験者グループには睡眠をとらせ、一部のグループは覚醒したままにしておく。睡眠グループの覚醒後、再び同じ課題をやらせると、覚醒グループでは成績の向上はみられなかったのに対し、睡眠グループでは描画時間の飛躍的な短縮がみられたのである(図1‐4)。

ここで注目してほしいのは、この特殊な課題の技能レベルが睡眠によって「維持」されたのではなく、明らかに「向上」したことである。同様な研究はほかにも多く行われている。たとえば、アルフアベットを等間隔でモニターの中央に映し出し、ときどき意味のない図形をモニター上のさまざまな場所にランダムに提示する。ある特定の図形を提示したときだけ、被験者はスイッチを押すように指示される。図形が提示されてから、押すまでの時間および正確性を判断する、というもの。あるいは、テトリスなどの比較的簡単なテレビゲームを、やったことのない初心者に行わせる、という課題を用いた研究や、タイピングの速さを指標とした研究もある。 こうした課題ではどれも、被験者は最初うまくできないが、だんだん上達する。そして睡眠をとると、その間は練習していないにもかかわらず、明らかな上達がみられたのだ。これは干渉説では説明できない。睡眠により積極的に運動技能が向上したと考えられるからだ。

「手続き記憶」で顕著な睡眠の効果

ところで、記憶にはいくつかの種類がある(表1‐1)

記憶の種類

記憶の種類

まず大きく分けて、記憶は「宣言的記憶(陳述記憶)」と「非宣言的記憶(非陳述記憶ごに分けられる。「宣丿的記憶」とは、言葉で説明できる記憶であり、その成立には側頭葉の内側にある海馬という部分に重要な役割があると考えられている。 宣言的記憶はさらに、「エピソード記憶」と「意味記憶」に分かれる。「エピソード記憶」とは、日記に記述できるような、場所、時間などの情報をともなう個人的に体験した出来事に関する記憶である。たとえば、「先週の木曜日、渋谷で友人の景子にあった」などがこれにあたる。エピソード記憶のなかでも、とくに場所に関わる記憶は「空間記憶」とよばれることもある。たとえば普通、私たちは駐車場に停めたクルマの場所を覚えていることができる。これが空間記憶である。エピソード記憶に対して「意味記憶」とは、個人的なこと、一般的なことも含めて、特定の出来事に関わらない一般的な事項に関する記憶である。たとえば「渋谷」などの場所の名や、友人の「景子」という名前は意味記憶にあたる。「宣言的記憶」に対して「非宣言的記憶」には、「手続き記憶」や「情動記憶」がある。「手続き記憶」というのは、文章や言葉で表現できない、技巧や運動技能などに間する記憶である。たとえば楽器の演奏や、スポーツ、テレビゲームなど、頭で考えなくても繰り返していくうちに上達するものについての記憶がこれにあたる。よく研究に使われているのはこの(非宣言的記憶であるところの)手続き記憶である。なぜなら、宣言的記憶は意識が必要な記憶なので、そのときの気分や集中力に左右され、また個人差も大きいから評価か難しいのである。とくに睡眠は集中力に影響を与えるから、集中力が結果を大きく左右するような課題は好ましくない。そこで、手続き記憶を用いた研究が一般的となる。前述の「回転図形描写課題」やテトリスの上速度も、手続き記憶に関するテストである。 手続き記憶には大脳皮質のほか、大脳基高位や小脳が主要な役割をはたしている。そして睡眠が手続き記憶の強化に非常に重要であることは、前述の実験例か示唆している。また、睡眠によって古い記憶が向上することはなく、新たに覚えた比較的最近のものを向上させることか知られている。非宣言的記憶と宣言的記憶には成立のメカニズムに大きな差があるので、一緒にして記憶と睡眠との関係を語るのは間違っている。しかし、手続き記憶ほど確固たるものではないものの、先に述べたジェンキンスとダレンバックの報告にみられるように、宣言的記憶についても睡眠が強化に関わっているのはほぼ間違いない。

また、ハーバード大学のスティックゴールドらは睡眠によって知能テストの成績が高くなることを報告している。記憶ばかりではなく、知的能力、認知力も向上するのだ。リューベック大学のボルンらのグループによる最近の研究では、学習中に特定の香り(たとえばバラなどの好ましい香り)をかいでもらい、ノンレム睡眠中に同じにおいをかがせると、学習効率か強化されることも示されている。さらには、そのとき海馬の活動が上がっていることもわかった。睡眠中に学習時の感覚を再現すると「睡眠中の記憶強化」の効率がアップするというのである。 このように睡眠がさまざまな記憶を固定・強化しているのは確かである。われわれは覚醒しているとき、数え切れないほどの体験をしている。それらの経験から、さまざまな学習をしている。そして、それを睡眠中に強化している!

レム睡眠とノンレム睡眠の役割の違い しかし、睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠がある。では、記憶を強化するのはレム睡眠とノンレム睡眠のうら、どちらなのだろうか。 前述のように、睡眠中なのになぜか大脳が強く活動しているのがレム睡眠である。そしてレム睡眠のときには夢を見ている。夢とは記憶の断片がつながったものである。となれば、レム睡眠時に記憶の再編成が起こっていると考えるのはもっとものことである。そして、それはある程度実験的にも証明されてきている。たとえば、ラットになにか学習課題をさせたあとでは学習する量が増えるほどレム睡眠が増えることが示されている。また、レム睡眠を取り除くと学習の成績が落ちる。これらのことからレム睡眠は記憶・学習に重要な役割をはたしていると思われる。PET(陽電子放射断層撮影)などの画像解析技術により、レム睡眠のときには宣言的記憶に関係する海馬の活動も上がっていることか示されている。 しかし、近年ではレム睡眠よりもノンレム睡眠、とくに深いノンレム睡眠が記憶の強化に重要な働きをしているとする考えが主流だ。ノンレム睡眠が深くなると、大脳皮質では錐体細胞とよばれる大聖のニューロンの発火が、だんだんと同期して起こってくるようになる。覚醒時やレム睡眠時のばらばらの活動をやめて、静かに同期して動き始める(図1‐5)。この錐体細胞の同期的な発火が、ニューロンじたいの維持や、細胞間のつながりの再構築に重要な働きをしているのかもしれない。脳が動いていたのでは、再構築をするのには不都合がある。そこで.度眠らせることにより、再構築しやすい環境をつくりだしているのかもしれない。ちょうど、店の改装のときに営業をいったん休止するのと同じである。動物をつかった実験でも、睡眠を奪ってしまうと、記億のもとになっているといわれる「長期増強」という現象が顕著に減弱してしまうという結果も出ている。

大脳皮質では、1つのニューロンが数千から数万個の入力を受けている。つまりほかのニューロンから膨大な数のシナプスを受けている。これらシナプスの、1つ1つの結びつきの強さ(シナプス効率)はばらばらで、しかも刻々と変化している。さらには新しいシナブスがつくられたり、すでにあったシナブスが消失したりする。このようなダイナミックな変化が、胴の記憶・学習と密接に関連していることは間違いない。いわば、配線のつなぎ換えをたえず行っているのだ。とすると、大規模なつなぎ換えをするときに装置のスイッチをオンにしたまま入力線を抜き差しするのは都合が悪いだろう。電気設備でも電源を入れっぱなしでメンテナンスをするわけにはいかない。そこで、いったん装置をスリーブモードにする必要かおるのではないか。 ここまでをまとめると、睡眠は身体の恒常性を維持する機構の保全だけでなく、精神の正常な機能を維持し、さらに記憶の強化に関与しているといえる。睡眠は私たちにとって、眠らなければ心身に変調をきたすだけでなく、つねにみずからをブラッシュアップし、その能力を向にさせるという積極的な意味でも、非常に重要な役割をはたしているのだ。 しかし、これは「なぜ眠るのか」という問いに対する完全な答えではない。睡眠中に脳はどのようなプロセスでこれらのことを可能にしているのだろうか?そして、そのプロセスを実行するのになぜ睡眠が必要なのだろうか?こうしたミステリーに迫るため、次の章から睡眠というものの正体を探っていこう。

最新技術で探る睡眠の正体

そもそも睡眠とはなにか?

定義の上では睡眠とはまず、外部の刺激に対する反応性が低下した状態であり、容易に回復するものである。つまり、植物状態や脳死などの昏睡状態にある場合や、全身麻酔で眠っている場合も刺激に対する反応性は低下しているが、「容易に回復できる」ということを満たさないため、睡眠とはみなされない。 それにくわえて第一.に、睡眠時は感覚系において外部の刺激(脳へのインプット)に対する反応性の低下かみられるとともに、運動系(脳からのアウトプット)に関しては、目的をもった行動がなくなる。睡眠中にも寝返りをうつなどの自発運動はあるし、場合によっては「レム睡眠行動障害」や「夢遊病(睡眠時遊行症)」という病気で睡眠中に動くことはあるが、それらは目的をもった行動とはいえない。 第三に、睡眠時にはその動物種特有の姿勢をとることが多い。人間の場合は、通常、横になって眠るし、ラットやマウスの場合は身を寄せ合って身体を丸めて眠る。動物によっては立ったまま眠るものもある。また、通常、どんな動物も巣に帰って眠る場合が多い。人間の場合も自宅で眠ることか多い。しかし後で述べるように、渡り鳥などは飛んだまま眠ることができるし、イルカは泳いだまま眠ることかできるので、動物によってはこれらの条件にあてはまらないものもある。 しかし、これらのヒントをもとに外から様子を醗察しただけでは、動物やヒトが眠っているのかどうか判断がつかないことがある。動物が動かなくなっていても、実は意識があるままじっとしている場合もある。これらの睡眠の特徴は、判断の助けにはなるが、確定的なことをいうのは難しい。ヒトの場合は、いわゆる「たぬき寝入り」をしている場合もある。

睡眠は「脳波」で測る

本物の「睡眠」と「たぬき寝入り」を客観的に区別するにはどうしたらいいだろうか。実際に睡眠を生理学的に観察できるようになったのは、脳波が使われるようになった1930年代以降である。現在、睡眠を客観的に観察するにはポリソムノグラフィーという検査装置が使われる(図2‐1)。

ポリソムノグラフィー

ポリソムノグラフィー

これは脳波、筋電図、眼球電図、心電図など生理学的な指標を同時に記録するものであるが、とくに脳波がもっとも重要な指標になる。

ヒトの脳波は1924年にドイツの精神科医、ハンス・ベルガーによって初めて記録された。当時、筋肉のある部分の皮膚表面に電極を置くと、筋肉の活動にともなって、電位変化が記録できる(こうして記録した電位変化を筋電図という)ことは知られていたが、ベルガーは、筋電図川の電極を頭皮に貼付したところ、電気活動が測れることに気がついた。さらに、すでにこのときベルガーは覚醒時と睡眠時で脳波が明確に異なることに気がついていた。覚醒時には速いが振幅の小さな波が、睡眠時には振幅は大きいがゆっくりとした波が記録されたのである。しかし、当時は「脳という精神を生み出す高尚な組織の活動が、電気などで測れるわけはない」という考えから、ベルガーのこの発見はあまり注目されず、顔の筋電図がたまたま測れたにすぎないと見過ごされてしまった。しかし、その後、数々の研究によって、ベルガーの発見が正しいことが証明されることになった。現在でも睡眠ステージ判定のもっとも重要な生理学的指標は脳波である。 では、脳波はどのようにして生まれるのだろうか?大脳皮質には、錐体細胞がほぼ垂直に多数並んでいる。これは文字通り、「錐体」の形(ピラミッド形)をしたニューロンであり、その頂点からは、大きく長い樹状突起が出ている。これを「頂上樹状突起」という。頂上樹状突起には、ほかのニューロンからの多数のシナプスがつくられている。ここで生じる電気的な変化(シナプス後電流)の集合が、脳波をつくりだすと考えられている(図2‐2)。

脳波の発生機構

脳波の発生機構

ただし、単一のニューロンから発生する電場はきわめて小さいうえ、電極からは数センチほど距離があるので、検出される脳波は数千から数万のニューロンによるシナプス後電流の集合体である。したがって脳波の信号の強さは、電極近くにあるニューロンの活動がどれだけ同期するかによる。ばらばらな発火では電位か互いに打ち消しあい、結果としてシナプス電流がつくる電場の振幅は小さくなってしまうのだ(↑図1‐5)。また、錐体細胞はより大きな電気活動として活動電位を発生するが、活動電位はシャープで持続時間か短いために同期するのは困難なうえ、脳波からノイズを除去するためのフィルターによって消去されてしまう。したがって脳波を構成しているのは主に、頂上樹状突起におけるシナプス後電流の総和であると考えられる。

コラム
活動電位(アクションポテンシャル)

ニューロンを含むすべての細胞は細胞膜で囲まれている。細胞膜にはさまざまなイオンを選択的に通すイオンチャンネルというタンパク質や、特定の物質などを選択的にとりこむトランスポーター、特定の生理活性物質と結合してその信号を細胎内に伝える受容体など、さまざまな機能をもつタンパク質が埋め込まれていて、通常、細胞の内側は電位が負に、外側は電位が正になっている。内側の電位が負になっていることを「分極」といい、この電位がゼロの方向(つまりプラス方向)に振れることを「脱分極」という。脱分極があるレベル(同値)に達すると、電位は急速に、ごく短時間だけ脱分極の方向に大きく振れる。これを「活動電位」(アクションポテンシャル)とよぶ。活動電位はナトリウムイオンとカリウムイオンの、細胞膜の通りやすさの変化によって生じる。 活動電位はすぐ隣の細胞膜にも脱分極を引き起こし、活動電位を生じさせる。こうしてドミノ倒しのように活動電位が軸索を伝わっていくシステムによって、ニューロンからの情報をデジタル信号として遠くまで減衰することなく伝えられるのである。同じ電気現象でも、電線のように電流が流れるシステムだと、信号は遠くに行くほど減衰してしまう。とくに速い速度の情報伝達を必要とするニューロンは、軸索の周りをところどころ髄鞘(ずいしょう)という絶縁体がとりまいている。これによって活動電位は飛び飛びに移っていくことができるようになり、より速い伝導が可能になる。これを跳躍伝導という。ニューロンに活動電位が発生することを「発火する」、活動電位の頻度を「発火頻度」という。

脳波で分かれる睡眠のステージ

1968年にはレヒトシャッヘンとカレスにより、脳波記録をもとにしたヒトの睡眠ステージの判定基準がまとめられた。 彼らはヒトの睡眠を5つのステージに分類した。レム睡眠(急速眼球運動睡眠)と、深さによって第1段階から第4段階までに細分化されるノンレム睡眠である。さらにノンレム睡眠でも第3段階と第4段階は、徐波睡眠(スローウェーブスリープ)として区別される(図2‐3)。

睡眠の各段階の脳波

睡眠の各段階の脳波

これらを脳波の状態によって分けると、以下のようになる。覚醒しているときには、周波数が高いベータ(β)波が脳全体に相当する領域で観察される。覚醒のまま目を閉じると、後照葉の近くでやや低いアルファ(α)波が出はじめる。脳がノンレム睡眠に入ると、さらに周波数の低いシータ(θ)波が現れてくる。こうしてα波が全体の50%以下にまで減少した状態を、ノンレム睡眠の第1段階と判定する。次に、紡鍾波とK複合波とよぼれる特徴的な波が出現するのが、第2段階である。さらに2ヘルツ以下の徐波(デルタ〔d〕波)が全体の20%以上かつ50%以下の段階が第3段階、そして、それが50%以上を占める段階を第4段階としている。

レム睡眠の発見

これまでにも述べてきたように、睡眠は大きくレム睡眠とノンレム睡眠に分けられる。睡眠と覚醒はまったく違う状態であるが、私たちは睡眠中にも、それと同じくらい異なる2つの状態を交互に経験しているのだ。つまり脳の機能的状態、あるいは作動モードには大きく分けて覚醒・ノンレム睡眠・レム睡眠の3つかある。ここで、第1章でも述べたレム睡眠について、おさらいをしておこう。 1953年、アセリンスキーとクライトマンは、睡眠学史上に残る大きな発見を発表した。当時クライトマンは、入眠時に起こるゆっくりと回転する眼球運動に注目し、それが睡眠の深さに関係するかに興味をもった。そこで、大学院生だったアセリンスキーに一晩にわたり睡眠中の眼球運動を記録することを指示した。彼はまず予備実験として、みずからの7歳になる息子、アーマンドを被験者として眼球運動を記録する装置を試した。しかしアーマンドが眠ると、やがて予想外の現象が記録された。睡眠中のアーマンドの眼球が急速かつ不規則に動きはじめたのである。アセリンスキーはこの現象を彼の恩師であるクライトマンに報告したところ、クライトマンはこれか非常に重要な発見であることを見抜き、研究を進めるように立案した。その後、彼らは被験者を増やして実験を進め、この睡眠中の眼球運動が、心拍数や呼吸数の変化もともなっていることを見いだした。そして最後には、この現象は睡眠中に規則的に脳が強く活動していることに由来していることに気がついたのである。それまで、睡眠中は脳の活動が低ドしていると考えられていたので、この「睡眠中の脳の賦活」は大発見であった(脳研究の分野では、脳の活動が高まることを「賦活」と表現することが多い)。彼らはこの現象を、急速眼球運動(rapid eye movement)をともなう睡眠という意味で、その頭文字をとってレム(REM)睡眠と名づけた。 レム睡眠発見は睡眠研究史上に残る画期的な成果であるが、その偉業はこのように、なかば偶然と幸運によってもたらされた。研究の世界では、大きな発見が一見、偶然と幸運によってのみなされたように思えることがある。しかし、それはつねにたゆまぬ努力をしている研究者に、気まぐれに訪れた幸運が味方をしたのであり、さらに、その研究者が幸運を見逃さないだけの観察眼と、その重要性を見抜く能力をもっていたからこそ成果として結実したのである。アセリンスキーの発見はこうした例のIつであろう。 俗にレム睡眠は「浅い睡眠」といわれることがあるが、これは間違いである。レム睡眠中は脳が活発に活動しているため、脳の休息の度合いから「浅い」といわれもするのだが、レム睡眠は、ノンレム睡眠と比べて「量的に」違うのではなく、「質的に」まったく違うものであると考えたほうがよい(表2‐1)。それはちょうど、コンピューターがオンでインターネットにもつながれている状態(覚醒)、スリーブモードの状態(ノンレム睡眠)、そしてオフラインで使っている状態(レム睡眠)の3つにあたると考えてよい。ヒトは1日の3分の1を眠って過ごすか、その睡眠時間のうち、4分の1がレム睡眠である。

ヒトの覚醒と睡眠

ヒトの覚醒と睡眠

なお、レム睡眠時には覚醒と似た速くて振幅の小さい脳波が記録され、海馬の活動によるθ波が見られる(↑図2‐3)。

全身に現れる2つの睡眠の大きな違い

ノンレム睡眠とレム睡眠では、脳だけでなく、全身の生理機能にも非常に大きな違いがみられる。全身の機能は脳によってコントロールされているのだから、それは当然ともいえる。では、それぞれの睡眠時に全身に現れる特徴をみてみよう。 ノンレム睡眠は一般的に脳の休息の時間だと考えられている。まず、脳の子芋ルギー消費とニューロンの活動は1日のうちで最低になる。脳波には、ゆっくりとした大きな振幅の波が記録される。これは、前述のとおり大脳皮質のニューロンが同期性をもって活動しはじめることによる。ノンレム睡眠時の身体の機能も特徴的である。脳の運動機能をつかさどる領域が全身の筋肉に命令を下すことが少なくなるため、筋の活動は少なくなる。しかし、必要に応じて寝返りなど、運動をすることは可能な状態にある。体温も下がり、エネルギー消費も少なくなる。自律神経系の機能では、交感神経の機能が弱まり、副交感神経の職能が亢進する。そのため、血圧や心拍数は下がり、消化器系の機能が亢進する。ノンレム睡眠時は身体も脳も休息状態にあるようにみえ、感覚系の人力の処理も覚醒時のようにはいかない。なにしろ中枢である脳が機能を落としているのだから当然である。しかし、感覚系が完全に遮断されているわけではない。大きな音がしたり、周囲が急に明るくなったりすれば誰でも目が覚めることを考えればわかるだろう。 レム睡眠時の脳と全身の状態は、ノンレム睡眠時とは大きく異なっている。驚くべきことに脳は、覚醒時よりも(それも難しい数学の問題を解くなどの知的な活動をしているときよりも)、活発に活動しているのである。レム睡眠の発見以来、多くの研究者がその生理的意義の解明に取り組んできた。それは、レム睡眠が非常にミステリアスな状態だからであり、また、第1章でも述べたように夢と関係が深いからであろう。レム睡眠中に覚醒させると、そのヒトは、非常に詳細に見ていた夢の内容を話すことができる。しかも、その夢は非常に不可解で奇妙な、そしてときにとても魅力的なストーリーをもっているのである(浅いノンレム睡眠のときにも夢は見るが、内容は平板的で単純である)。 レム睡眠時の大脳皮質は覚醒時と同等か、あるいはそれ以上に活動しているため、脳波は覚醒時と非常によく似た、低振幅の逓減である。このことから、レム睡眠はしばしば逆説睡眠(paradoxical sleep)ともよばれている。また、レム睡眠時には脳幹から脊髄にむけて運動ニューロンを麻痺させる信号が送られているため、全身の骨格筋は眼筋や耳小骨(中耳の小さな骨)の筋肉、呼吸筋などをのぞいて麻痺している。そのためレム睡眠時には脳の命令が筋肉に伝わらないので、夢の中での行動が実際の行動に反映されることはない。ただ眼球だけは、不規則にさまざまな方向に動いているのだ。これは夢の中での高次視覚野の活動が、脳幹に伝わって眼球を動かしていると考えられている。これは、夢で見ている何らかのものを、追尾してみようとしているかのような状態である。 自律神経系の働きとしては、レム睡眠時は不可解なことに、交感神経系と副交感神経系の活動がともに大きく変動している。そのために心拍数、呼吸数が増えるとともに陰茎の勃起が起こる(図2‐4)。また、体温調節機能はほぼその機能を停眼する。感覚系から脳への入力は、中継点である視床という部分で遮断される。また、前述のように出力としての運動を起こすこともできない。にもかかわらず、中枢である脳は賦活されている。つまり身体と脳の間の情報交換をカットした状態で、脳じたいは活発に活動しているのだ。

睡眠時の生理的変化

睡眠時の生理的変化

このようにレム睡眠中には、胴も身体も非常に不思議なことを行っているように思われる。第1章で紹介したピーター・トリップは、不眠マラソン挑戦後に眠ったとき、非常に長いレム睡眠がみられたという。レム睡眠を選択的に除去する動物実験によって、レム睡眠の必要性が明らかにされたことも第1章で述べた。ポリソムノグラフィーで睡眠ステージを確認しながら、レム睡眠に入ったときに動物を刺激して覚醒させる、という方法でレム睡眠を取り除くと、必ず「レム・リバウンド」とよばれる現象が起こる。レム睡眠に入るまでの時間が大幅に短縮し、レム睡眠の時間が延ぴるのである。このことは、レム睡眠はあとで取り戻す必要のある重要な時間であることを推測させる。3日もすると、すぐにレム睡眠に入るようになり、眠りそのものを奪うことと同じになってしまうのである。

ルール通りに繰り返される「睡眠のかたち」
睡眠の約75%はノンレム睡眠であり、残りの25%がレム睡眠である。これらはランダムに現れるわけではなく、規則正しく繰り返される。健康な眠りでは、レム睡眠は必ずノンレム睡眠のあとに現れる。レム睡眠が終わると、またノンレム睡眠に戻る。これをおよそ90分ごとに繰り返しているのだ。 睡眠中にみられる睡眠ステージの変化を時間に対して表したものを「睡眠図」あるいは「睡眠経過図」といい、この睡眠図から腿てとれる睡眠の変化の様子、いわば睡眠のかたちを「睡眠構築」という。第1章で図1‐2として示したものが睡眠図である。 ヒトの場合、ノンレム睡眠は第1段階から第4段階の4つの段階に分けられることは前にも述べた。つまり人間の脳の睡眠・覚醒ステージは、覚醒とレム睡眠を含めて全部で6段階に分類されている。正常な睡眠では、就寝後、覚醒状態が数分から20分ほど続き、まず第1段階のノンレム睡眠に入る。その後、睡眠は第2段階、第3段階、第4段階と深くなっていき、やがて最初のレム睡眠か現れる。このレム睡眠に先行するノンレム睡眠の長さを、レム潜時という。ノンレム睡眠に入ってからレム睡眠が終わるまでを「睡眠単位」とよび、通常、ほぼ90分の睡眠単位を4回から5回繰り返すと覚醒する。睡眠が進むほど(後半の睡眠単位ほど)、深いノンレム睡眠が少なくなり、レム睡眠は増加して、レム潜時も短くなる(↑図2‐4)。しかし、必ずノンレム睡眠が先行するというルールに変わりはない。ただし、非常に疲れているときや、断眠後には、レム潜時がかなり短くなる場合もある。 また、90分という睡眠の周期は一般にもよく取り上げられるが、これは個人差やその日のコンディションによっても異なることが多く、60分から110分ほどの幅があると考えておいたほうがよい。

最新技術で見えてきた睡眠時の脳
前に述べたように、睡眠は脳波を中心としたポリソムノグラフィー(→図2‐1)によって客観的に観察される。しかし、脳波は脳の中でも主に大脳皮質の機能を反映するものであり、また、その分解能にも限界がある。とくに脳の深部の機能を見ることは、頭皮の上から記録した表面脳波では不可能である。しかし現在では、PET(陽電子放射断層撮影)やfMRI(機能的核磁気共鳴画像)などの脳機能画像解析技術を用いることにより、脳の各部の活動を三次元的な画像としてとらえることが可能になっている。PETやfMRIでは、代謝や血流の増加を見ることにより脳の活動の増加(賦活)を見ることができる。これらの手法により、脳波ではわからなかった脳の各部位の働きが、見られるようになったのだ。 レム睡眠とノンレム睡眠では脳がまったく違う状態にあることはこれまでも述べてきたが、それぞれに特有な脳活動のパターンがあることも、これらの研究で明らかになってきた。そこで、それぞれの場合の脳の活動はどのように違うのかを少し紹介しよう。 深いノンレム睡眠(徐波睡眠)では、脳全体の血流量は低下する。これは、ノンレム睡眠時に脳が休息状態にあることを示している。とくに、脳幹、前脳基底部、視床の活動が顕著に低下する。これらの領域は覚醒の制御に強く関わるところなので、ノンレム睡眠のときに活動が低下するのは当然である。しかし唯スノンレム睡眠中に活動が高くなる部位が存在する。それは、後で述べる「視索前野」の活動である。視索前野は、間脳と中脳の移行部にあたる「視床下部」の前部に存在し、「睡眠中枢」としての機能をもっていると考えられている。睡眠はこの「睡眠中枢」ともよばれる部分が興奮することによって、つくりだされている。つまり睡眠は受動的なものではなく、脳が積極的につくりだしているものなのだ。この視索前野を「眠らせる脳」とよぶ人もいる。 また、ノンレム睡眠時の大脳皮質の活動度の低下は、一様に起こるわけではなく、言語中枢を含む左側頭葉や、左前頭葉の領域の低下が強く現れることが知られている。これは、覚醒中によく使われた脳部位に睡眠が強く現れるのだと解釈されている。このことは、睡眠が「脳全体」に「一様」に起こるものではなく、「局所」で制御されていることを意味している。この現象は「ローカル・スリープ(局所睡眠)」といわれている。さらに最近では、睡眠は大脳皮質の「コラム構造」の単位で制御されているという説もある。 レム睡眠時の脳内活動のパターンはきわめて特徴的である(図2‐5)。まず、脳幹の橋で橋被蓋(きょうひがい)という部分の活動が高くなる。この部分はレム睡眠を駆動する中枢であると考えられている。ここにはアセチルコリンという脳内物質をもつニューロン(コリン作動性ニューロン)が存在し、レム睡眠時に活発に活動する。また、扁抗体や海馬といわれる部分が活動する。これらは「大脳辺縁系」とよばれる部分の一部で、感情や記憶に関わっている。レム睡眠時に見る夢か「怖い」「楽しい」などさまざまな感情をともなうものが多いことは、扁抗体の活動と関係していると思われる。また、海馬は宣言的記憶に関与する部分であり、第1章でも述べたように睡眠と記憶や学習との関連が示唆されている。(現)京都大学の神谷之康教授らはfMRIの技術を用いて、レム睡眠中の視覚野の活動パターンからヒトが夢の中で見ているイメージを判断できることをも示している。

レム睡眠時の脳の活動

レム睡眠時の脳の活動

さらにレム睡眠のときに見る夢は物理的にありえないことが起きたり、時間関係がめちやめちやだったりと奇妙な内容のものが多いが、夢を見ているときには奇妙だと気づかないのは、前頭葉の前頭前野背外側部という部分の機能が低下しているためである。この部分が十分に機能しないと、見ている現象に関して、反省するとか、「おかしいぞ」と疑問に思うことができなくなるのだ。 また、夢はたいてい視覚的なものであり、ほかの感覚をともなうことは少ない。これは、レム睡眠時には一次視覚野は活動が停止しているが、高次視覚野は活発に活動していて、この部分で視覚イメージがつくられているためと考えられる。しかし、ときには私たちは、夢の中で触覚や嗅覚、聴覚、そして味覚までも体験することがある。こうした場合は、それぞれの中枢の活動が意識に上ってきているのだと考えられる。音楽家など音に関わることの多い人は聴覚の夢を見ることが多く、ソムリエのように香りに関わる職業の人は嗅覚の夢を見るという。レム睡眠では記憶した事柄を、感覚情報からくる要素をもとに分別・整理しているのかもしれない。いずれにしても、これらの感覚は当然のことながら現実に起きているものではなく、睡眠中に脳が勝手につくりだしているのだ。つまり、夢とは幻覚の一種なのである。 このように、画像解析技術を使うことによって視覚野などの活動の観察が可能になり、夢のメカニズムについても客観的にみられるようになっている。

脳活動の違いでみる覚醒とレム睡眠

では、覚醒しているときの脳活動は、睡眠時とどう違うのだろうか。 これまでみてきたように、脳には大きく分けて、活動モードとスリーブモードかおる。前者は覚醒とレム睡眠であり、後者はノンレム睡眠である。そして覚醒とレム睡眠を大きく分けるのは、覚醒時は五感を通して入力されてくる外界の情報を処理しながら、それに応じて脳が活動していることである。五感の情報は、大脳皮質で解析を行うとともに、大脳皮質と並列なシステムである大脳辺縁系において、「重みづけ」がされる。大脳辺縁系とは、得られた情報の重要性をはかるシステムといってもよい。つまり、得られた情報が自分にとって喜ばしいことか、望ましくないか(場合によっては恐怖の対象か)、などを判定している。こうした、正の、あるいは負の情動が、覚醒を維持するために働く。いわば覚醒というモードは、外界の刺激に応じて、大脳皮質が賦活しているのだ(もちろん内在する記憶システムとの照合は随時行われているが)。 それに対してレム睡眠では、外界との情報のやりとりはなくなっている。感覚系からの入力も、運動神経を介する筋肉への出力もカットされてしまっている。こうした「オフライン」状態においては、脳を賦活する刺激は、内的に発生している。脳幹の橋被蓋にある「コリン作動性ニューロン」が自発的に活動し、それか視床などを介して大脳皮質を賦活しているのである。コリン作動性ニューロンは同時に視覚連合野や大脳辺緑茶も刺激する。したがって、夢は情脂性に富んだ視覚イメージになる。前述したようにそれは決して現実ではなく、脳がっくりあげた幻覚といっていい。しかし夢を見ている当人は、前頭前野背外側部の活動が低下しているため、それか現実だと信じて疑わないのだ。夢の中では、思考も、過去を思い出すこともできない。ただ体験と感情かおるだけだ。「メタ認知」という概念がある。これはヒトが思考や行動、認知をしているときに、それを客観的に「いま自分は思考をしている」と認知することで、それを行う能力をメタ認知能力と呼ぶ。つまり「認知していること」を認知できる能力である。この能力により、私たちは通常、自分か思考し、行動していることを客観的に認識しているのだ。しかし、夢の中ではこの能力が著しく欠如している。これも前頭前野の機能が落ちているからだと思われる。 レム睡眠にみられるこうした現象は、一種の精神障害に非常に似た部分がある。われわれは、毎晩それを体験することにより、逆に正常な精神を維持しているのかもしれない。

コラム3
前頭葉と前頭前野

私たちは日常、とてつもない量の情報を脳で処理している。それらは、生活環境から感覚系を通して入ってくる情報である。感覚系からの情報が脳で処理され、いまがいつで、そこがどこで、まわりで何が起こっているのか理解しながら生活している。そして何かおかしなことが起こったら「なぜだ!?」と思い、解決しようとする。やがてたいていの場合は答えを見つけて「なるほど!」と納得する。 こうした作業は主に、前頭葉のうち前頭前野という部分で行われている(前頭葉は前頭前野と運動機能に関わる前頭運動野からなる)。五感からばらばらに入ってくる情報を整理して、いま起こっている現実を「構築」しているのだ。その意味ではわれわれが見たり聞いたりしていることはすべてバーチャルリアリティーであるともいえる。なぜこのようなことができるのかは正確に解明されてはおらず、「バインディング問題」として神経科学における難問の1つとなっているが、いずれにしても前頭葉は、さまざまな情報を論理的なかたちに統合する機能をもっている。 前頭前野背外側部には作業記憶(ワーキングメモリー)という機能がある。記憶システムとして海馬の話をしたが、これはそれとは別の記憶システムである。比較的長期の記憶ではなく、瞬時に記憶を蓄え、すぐに消えていく記憶を扱う。コンピューターでいえばRAMにあたると言ってもよい。人は思考するとき、あるいは計算などでも、言葉やイメージ、数字などを一時的に蓄えておく必要があるのだ。作業記憶は海馬での記憶と遅って瞬時に消え、容量も限られている。7桁程度の数字なら誰もが瞬時に覚えられるが、それ以上は難しいだろう。また、何か考えているときに誰かに話しかけられると思考がまとまらなくなってしまうことは、誰もが経験する。これも作業記憶が限られた容量しかもたず、また後続きしないからである。 作業記憶は論理的な思考に必要なものであり、その機能は意識や知能、認知と密接な関係があるといわれている。レム睡眠中にはさまざまな脳部位が賦活しているが、それにもかかわらず作業記憶を担当する前頭前野背外側部の機能は、とくに低下していることがわかっている。そのため、夢の中では因果関係がおかしなことや脈絡のないことが平気で起こるし、それを奇妙だとも思わないのだ。

(注)バインディング問題‥脳は各部位でさまざまな機能を分担して、全体として1つの機能体として働いている。たとえば、いまあなたがバッティングセンターでポールを打つとする。ボールが飛んでくる様子(視覚)、ミート音(聴覚)、手に残る感触(体性感覚)は脳の別々の部位でデジタル化されて処理される。それなのに、この一連の過程は時間差もなく、スムーズに統合されている。このような情報の統合がどうして可能になっているのか、よくわからないのだ。これをバインディング問題という。

睡眠と覚醒を切り替える脳の仕組み

神経伝達物質とニューロン

床に就く。意識が闇に吸い込まれる。眠りの世界への旅立ちである。そして夜が明け、目が覚める。床の中で自分のおかれている環境が全身の感覚系を通して伝わってくる。意識が清明になってくる。こうして毎日繰り返される、大服と覚醒。しかし、その間を行き来するときのことを、ふだん私たちが明確に意識することはない。いったいその境界では、脳内で何か起こっているのだろうか? この章では、睡眠と覚醒を切り替える脳内のしくみをみていこう。

フオンーエコノモが発見した視床下部の役割

1920年前後のヨーロッパで、ウイルスによると思われる脳炎が流行した。それらの患者の中には、こんこんと眠りつづける「嗜眠症状」という症状を示す患者がみられた。しかし、なかには逆に、ひどい不眠を訴える症例もあった。オーストリアのウィーンで研究をしていた神経病理学者フォン・エコノモは、これらの脳炎患者のうち不幸にして亡くなった人たちの病理学的所見から、脳の視床下部とよばれる部分(脳幹の延長に存在する間脳の一部)の前部に病巣がある場合は、不眠をきたすこと、そして視床下部の後部に病巣がある場合には、嗜眠症状を示すことをつきとめた(図3‐1)。このため現在でも、嗜眠症状を示す脳炎をフォン・エコノモ脳炎とよぶことがある。

その後、数十年の時を経て、フォン・エコノモの観察は正しいものだったことが明らかになった。視床下部の後部には、覚醒に深い関係をもつオレキシンとヒスタミンという脳内物質をつくるニューロンが存在していた。また、視床下部の前部には視索前野という部分が含まれ、ここに睡眠をつくりだすシステム(睡眠中枢)が存在していることかわかったのである。 つまり、フォン・エコノモが主張したとおり、視床下部には睡眠に関わる部分と覚醒に関わる部分が存在する。これらがこのあと述べるように、脳幹に存在する覚醒を制御するニューロン群に働きかけ、睡眠と覚醒のスイッチか切り替えられるのだ。 ここで、視床下部という部分について少し述べておきたい。 視床下部は、動物の恒常性を制御する部分である。恒常性(ホメオスタシス)とは、状態を.定に保つ、という意味である。たとえば、恒温動物の体温は気温が変わってもほぼ一定に保たれている。また、血圧や、血液中のさまざまな物質の濃度なども一定の範囲に保たれている。このように生体のさまざまな機能は、内外の環境が変わっても変動が、定の範囲内に保たれているのだ。こうした恒常性の制御は、自律神経系の機能や、ホルモン濃度の調節によって行われている。視床下部は自律神経系や内分泌の機能を調整することによって、全身の恒常性を維持しているのだ。 ただし実際には、体温や心拍数、血圧、呼吸数などはつねに一定の値に保たれているわけではなく、その環境における適切な状態にセットされる。運動したり、興奮したりすれば心拍数や血圧が上がるのもそのためだ。つまり視床下部は、生体をその環境において最適な状態にコントロールするための中枢なのだ。こうしたホメオスタシスの概念を拡大した解釈をホメオダイナミクスとよぶ。 このように視床卜部は恒常性の中枢であるが、同時に、情動や本能行動にも関わっている。そして、睡眠と覚醒のコントロールにおいても、重要な働きをしている。睡眠も本能行動の1つなのだ。断眠をつづけると視床下部の恒常性維持機構にも破綻が起こることは第1章で述べた。睡眠は視床下部によってコントロールされているが、逆に視床下部の機能にとっても睡眠は不可欠なものなのである。

コラム4
脳の構造

ヒトの脳は、重さが約1300グラムの器官である。それは、身体が使う全エネルギーの約20%を使うという、贅沢な器官でもある。そのエネルギーのうち、約80%は細胞の静止膜電位を生みだすためのポンプの駆動に使われている。つまり、情報処理のために大部分のエネルギーを使っているわけだ。 脳は階層構造をもっている。いちばん内側には脳幹とよばれる構造がある。これは脊髄と連続していて、下から延髄、橋、中脳がある。脳幹はいわば生命維持装置のような働きをしていて、循環や呼吸の中枢がある。中脳と連続して大脳のもっとも深部に位置するのが、視床下部である。

脳の機能は部位別に役割分担がされている。これを脳の「機能局在」とよぶ。大脳皮質も部位によって特定の機能を担っている。

脳幹による「大脳の賦活」が覚醒とレム睡眠をもたらす

しかし、視床下部だけで睡眠と覚醒が制御されているわけではない。睡眠と覚醒は、脳全体におよぶモード変換であり、そのためには視床下部からの働きかけを脳全体に伝えるシステムが必要になる。 このとき、とくに重要なのは、大脳皮質の活動である。大脳皮質の活動モードに変化を引き起こすシステムは脳幹にある。脳幹は大脳の付け根の部分にあたり、視床下部とはすぐ隣に接している。脳幹は呼吸や循環などを統制する中枢であり、生命維持装置としての働きもしている(「脳死」とは、脳幹の機能が止まってしまうことをいう)。 脳幹が脳全体を賦活するシステムは、睡眠と覚醒を理解するために重要だ。そこで、少し込み入った話になるか、ここでくわしい説明をしておきたい。 1949年、ノースウェスタン大学のモルッチとマグーンは、ネコの脳幹の中央部にある「脳幹網様体」を電気的に刺激すると、眠っていたネコが覚醒することを見いだした(図3‐2)。また、脳幹網様体を破壊するとネコは覚醒することができなくなった。脳幹網様体とは神経線維が「網」の目のように縦横に走っている部分で、その中にニューロンが散在している。

この現象から彼らは、脳幹には覚醒をつくりだす中枢があり、下位の中枢である脳幹から上位の中枢に向かって(上行性の)信号を送り出すことによって大脳に刺激を送り、覚醒をつくりだしているという「上行住脳幹網様体賦活系説」を提唱した(図3‐3)。それまでは、覚醍とは、感覚系からの刺激が脳を刺激することによって起こるという「反射説」が主な考え方だったので、覚醒は脳内でつくりだされるというこの説は、それをくつがえす画期的なものであった。当時の生理学は、さまざまな現象を「反射」によって説明しようとするシェリントンらの考え方か主流だったのだ。

上行性網様体賦活系

上行性網様体賦活系

当然ながら、そのぶん多くの反論もなされた。脳幹を刺激するときは感覚系の経路を刺激しているはずだし、破壊実験のほうも網様体を壊すときに感覚系の入力も同時に壊してしまった結果にすぎないというのだ。しかし、その後、さまざまな追試験がなされ、脳幹に覚醒を制御する中枢があることは間違いのない事実として、一般的に認められるようになった。感覚系の経路に障害を与えないように注意深くネコの脳幹網様体を破壊しても、やはりネコは覚醒することができなくなり、ノンレム睡眠に似た状態になるのである。これは、感覚系からのインプットが正常であっても、脳幹網様体が壊れれば覚醒はできなくなる、つまり脳幹網様体は覚醒をするために不可欠な部分であることを意味していた。 その後、フランスの生理学者ミッシェル・ジュベらの研究により、覚醒だけではなくレム睡眠を引き起こす中枢も、脳幹網様体にあることが示された。ジュベは、まずネコの脳幹の橋の上をすべて切除しても、レム睡眠時にみられる急速眼球運動や筋肉の弛緩が観察されることを示した。つまり、レム睡眠の中枢は大脳ではなく橋にあり、ここから脊髄に向けて筋を弛緩させる命令が下りていると思われた。 次にジュベは、この中枢からは上向きにも、大脳に向けた信号が送られていることを示した。ネコでは橋→外側膝状体(がいそくしつじょうたい・視覚情報を伝える視床の一部)→視覚野への信号の流れ(PGO波)が記録され、橋由来の信呼により大脳皮質の視覚野に情報が伝えられる様子がとらえられた。 つまりジュベは、レム睡眠の場合も、覚醒と同じように、脳幹の橋にある中枢から上向きに大脳皮質が賦活されていることを示したのである。そのため、レム睡眠では覚醒と似た脳波か記録されるのだ。 このように覚醒とレム睡眠は、いずれも「脳幹によって上行性に駆動される大脳皮質の賦活」によって起こる。ノンレム睡眠時にはこれら上向きの刺激システムの活動は停止している。つまり、覚醒とレム睡眠は、脳幹からの刺激によって引き起こされる大脳皮質の活動という点で類似しており、同じ「睡眠」というくくりで語られるノンレム睡眠とレム睡眠よりも、実は、覚醒とレム睡眠のほうが、共通点がみえてくるのである。 それでは、覚醒とレム睡眠の違いをもたらしているのは何なのだろうか?次に、そのことをみていこう。

コラム5
神経伝達物質

脳には1000億ものニューロンが存在するが、それぞれが情報交換できなければ、情報処理をする能力を発揮できない。ニューロンは他のニューロンの近傍まで軸索を伸ばし、細胞体または樹状突起の上にシナプスをつくって接している。そのシナブスで他のニューロンに接してはいるが、くっついているわけではなく、情報交換には物質を用いている。上流にあたるニューロンが物質を放出して、下流のニューロンがそれを受容体とよばれる分子で感知する。すると、下流のニューロンは興奮するか、または抑制される。こうしたニューロン間の情報交換に用いられる物質を、神経伝達物質とよぶ。 神経伝達物質にはグルタミン酸やGABAなどのアミノ酸や、アドレナリンやセロトニン、ドーパミン、アセチルコリンなどの生体アミンのほか、アミノ酸がつながったペブチドなどがある。とくに脳などの神経系で見つかったペプチドを神経ペプチドとよんでいる。神経ペプチドは100種前後存在すると考えられているが、未知のペプチドが存在する可能性も非常に高い。 特定の神経伝達物質を主な信号伝達に用いているニューロンを、「〜作動性ニューロン」とよぶ。たとえばグルタミン酸を神経伝達物質として用いているニューロンは「グルタミン酸作動性ニューロン」である。 また、1つのニューロンは単一の神経伝達物質だけをもっているわけではなく、複数もっているものも多い。

モノアミン作動性システムは「Eメール」ではなく「館内放送」

モルッチとマグーンによって提唱された、前述の「上行住脳幹網様体賦活系」は重要なシステムであるが、いまではもう少し細かなメカニズムが明らかになってきている。

まず、脳幹の中で覚醒を制御する部分が明らかにされてきた。それはいくつかの「神経核」である(あるいは単に「核」ともいう)。神経核とは、ニューロンの細胞体が集まっている部分である。脳幹にはいくつか、特定の神経伝達物質をつくるニューロンが集まった神経核が存在しているが、その中に、覚醒しているか睡眠時かに応じて、活動を変化させている神経核が見いだされている。しかも、その活動の変化は、睡眠/覚醒の状態移行よりも先行して起こる。つまり、これらの神経核の活動変化の影響が、睡眠や覚醒をつくりだしていると考えられるのである。 また、睡眠と覚醒の切り替えには、グルタミン酸やGABAなどの神経伝達物質(↓コラム5)によって行われる通常の神経伝達のみではなく、脳のモード変換に関わる2つのシステムも関わっていることがわかってきた。1つは「モノアミン作動性システム」とよばれるものであり、もう1つは「コリン作動性システム」とよばれるものである。実は、この2つのシステムがどう活動するかによって、覚醒、レム睡眠、ノンレム睡眠という3つの状態か切り替わるのだ。 モノアミン作動性システムとは、「モノアミン」と総称される物質をつくるニューロン(モノアミン作動性ニューロン)が主役を演じるシステムである。モノアミンとは、アミノ酸からカルボキシル基が外れた形を基本形とする化学物質の総称で、悩内では神経伝達物質として働く。主なものに、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミン、ドーパミンなどがある。 これらモノアミンのうち、ノルアドレナリンは青斑核、セロトニンは縫線核という部分に存在するニューロンかつくっている。これらの核はいずれも脳幹に存在する(図3-4)。また、視床下部の脳幹との境界部にある結節乳頭体という核には、ヒスタミンをつくるニューロンがある。これらの神経核は、大脳皮質の広範な部分にまで根を張るようにおびただしく伎分かれした岫索を伸ばしていて、「広範投射系」とよばれている。つまり、脳幹の小さな領域から発した情報か、軸索によって脳幹網様体を通過して上行性に大脳まで達し、脳全体に影響を及ぼすような解剖学的構造をもっているのだ。

モノアミン作動性ニューロン

モノアミン作動性ニューロン

脳内で働くもっとも主要な神経伝達物質にグルタミン酸やGABA(γアミノ酪酸)があるが(いずれもアミノ酸系神経伝達物質)、これらに比べるとモノアミン系の神経伝達物質は、はるかに作用時間が遅く、しかも持続的である。なぜならば、アミノ酸系の神経伝達物質の受容体はそれじたいがイオンチャンネルであり、グルタミン酸やGABAが作用するとただちにそのニューロンに電気的変化が起こるのに対し、モノアミン系の物質は受容体に作用してからGタンパク質という分子を介して細胎内で代謝的変化が起こり、その結果として電気的変化か起こるからだ。そして、これらをつくるニューロンの形態も機能も、特殊なのであたとえば、グルタミン酸をつくる二ューロン(グルタミン酸作動性ニューロン)の場合なら、そのシナプスは層状突起上の棘突起(きょくとっき)につくられ、その周りを「アストロサイト」とよぱれるダリア細胞が仲ぱす突起がとりかこむことによって、グルタミン酸は非常に局所的に作用するようになっている。こうすることでほかのニューロンヘの「情報漏れ」を防ぎ、精度を高めているのだ。それに対し、モノアミンを神経伝達物質とするニューロン(モノアミン作動性ニューロン)では、軸索の末端は数珠状のふくらみを多数もった形態をしていて、そのふくらみからモノアミンが分泌される。このことにより、グルタミン酸作動性ニューロンとは逆に、軸索の周辺の多数のニューロンに影響を与えることができる。こうした伝達を容量伝達(ボリュームトランスミッション)という。

これらの特徴により、モノアミン作動性ニューロンは、小さな領域から発生した情報を脳の広範なニューロンに伝えることができる。「情報漏れ」を防ぐのではなく、むしろ広い範囲のニューロンに、同時に同じような情報を与えようとするシステムなのである。グルタミン酸作動性ニューロンが特定の個人向けに情報を発信する、いわばEメールだとすれば、モノアミン作動性ニューロンは館内放送のような情報伝達方式をとっているわけだ。この働きにより、「脳全体」の作動モードを変換するのだ。モノアミン作動性ニューロンが「覚醒」というモードをつくりだすのも、この働きによるものなのである。 ちなみに、多くの覚醒剤はモノアミン作動性ニューロンの働きに影響を与える。このことからも、モノアミン作動性ニューロンが働くシステム(モノアミン作動性システム)が覚醒と深い関連があることがわかると思う。

レム睡眠はコリン作動性システムによって起動する

次にもう1つのシステム、「コリン作動性システム」をみていこう。 これは、「アセチルコリン」とよばれる脳内物質をもつニューロン(コリン作動作ニューロン)が主役のシステムである。これらのニューロンは、脳幹の橋にある「外背側被蓋核(がいはいそくひがいかく)」と「脚橋(きゃくきょう)披蓋核」とよばれる神経核に存在する。コリン作動性ニューロンもモノアミン作動性ニューロンと同様に、脳内に広範に影響を与えるシステムをもっている。コリン作動性システムは視床に多く投射し、ここを介して脳全体に影響を与え

そして、覚醒、ノンレム睡眠、レム睡眠の切り替えは、モノアミン作動性システムとコリン作動性システムの活動の組み合わせが変化することによって行われるのである。 覚醒のときには、モノアミン作動性システムに加えてコリン作動性システムも含めたすべての広範投射系が活動して、大脳皮質を賦活している(→図3‐3)。それに対してノンレム睡眠では、これらのシステムの活動が低下してしまい、大脳の賦活も止まるのである。 特殊な状況が現れるのは、レム睡眠のときである。モノアミン作動性ニューロンはノンレム睡眠時よりもさらに発火頻度が低下して、活動をほぼ完全に止めてしまう。その一方で、コリン作動性ニューロンによって、大脳皮質が強力に賦活される。レム睡眠特有の脳の機能が発揮されるのは、この働きによると考えられるのだ。 多少、補足しながらもう一度繰り返すと、覚醒は、モノアミン作動性システムとコリン作動性システムがともに活動することによって、大脳皮質の広範な部分が刺激されて引き起こされる。 ノンレム睡眠はモノアミン作動性システムやコリン作動性システムの活動が低下した状態であり、そのために大脳皮質は広範に活動が低下してしまう。 レム睡眠に入ると、モノアミン作動性システムは完全に活動を停止するが、コリン作動性システムか強力に大脳皮質を(覚醒時とは別のパターンで)賦活する。このとき、前頭前野の.部(前頭前野外背側部)などは機能が低下したままであるため意識は覚醒時のように清明ではなく、睡眠状態のままである。このことを言い換えれば、前頭前野を賦活するためにはモノアミンの働きが必要なのだと考えられる。

ちなみにモノアミン作動性システムは体温調節などにも必要なシステムであり、この機能が停止していることは、レム睡眠中の体温調節機能がほぼ停止していることにも関係している。体温が十分に保てないような雪山で遭難したときなどに、レム睡眠におちいっては生命の危険がある。

「睡眠」と「覚醒」はシーソーの関係にある

それでは、覚醒/睡眠に関わるこれら2つのシステムは何によってコントロールされているのだろうか。実は、脳幹が生みだすこの2つのシステムをコントロールするのが、先に述べた視床下部にあるシステムなのである。 視床下部が脳幹のすぐ上に位置していることは前述した。重要なのは、視床下部の前部、とくに視索前野とよばれる部分にある睡眠を導きだすシステム、いわば睡眠中枢である。ここは、フォン・エコノモが「不眠」を引き起こす部位として見つけた部分にあたる。 睡眠中枢には、睡眠時にのみ発火するニューロン(いわば睡眠ニューロン)が存在している。このニューロンは抑制性の神経伝達物質であるGABAをもつGABA作動性ニューロンであり、覚醒を導きだす脳幹のモノアミンノコリン作動性ニューロンを強力に抑制するのである。逆にモノアミンノコリン作動性ニューロンは、視索前野の睡眠ニューロンを抑制する。 つまり、睡眠をつくりだすシステムと覚醒をつくりだすシステムは、お互いに抑制しあう関係にあるのだ。「覚醒」という状態と「睡眠」という状態は、混在することがなく、相互に移行はするが、基本的に独立している(ただし病的状態では睡眠と覚醒が混在することがある)。それは、このメカニズムによって、厳密にスイッチが切り替えられているからなのだ。 つまり、睡眠の状態になるか覚醒の状態になるかは、視索前野の「睡眠システム」と脳幹の「覚醒システム」(モノアミン作動性システムとコリン作動性システム)の力関係によって決まることになる。ここで理解を助けるために、シーソーを想像していただきたい。シーソーの一方の端には睡眠システム、つまり祖宗前野が乗っていると想像してみよう。そして逆の端には、覚醒システムである脳幹のモノアミン/コリン作動性システムが果っているとする(図3‐7)。ここで、それぞれのシステムの活動の強さは、それぞれのシステムの「重さ」にたとえられる。どちらかの重みが他方の重みにうち勝つと、覚醒または睡眠がもたらされるのである。今後は、この「睡眠システム」と「覚醒システム」のバランスをもとに説明していこう。

覚醒が引き起こされるしくみ 覚醒は、シーソーが覚醒側に傾いている状態ということになる。では「覚醒システム」、つまり脳幹のモノアミン作動性システムとコリン作動性システムは、大脳にどのように働いて覚醒をつくりだしているのだろうか。 ヒトの脳の大脳皮質は、厚さは1・5〜4・5mmほどで、しわ(脳溝)を伸ばして平面にすると、2000平方cmくらいの面積になる。これは、ほぼ新聞紙1ページの面積と等しい。そして大脳皮質は、6層の構造をもっている。この6層構造を構成するのは膨大な数(約140億個)のニューロンである。大脳皮質のニューロンにもたくさんの種類があるが、大脳皮質が演算した情報を出力するのは錐体細胞とよばれる大型のニューロンである。 脳は高度に役割分担されていて、部位ごとにさまざまな機能がある。覚醒しているときには、これらのさまざまな機能が統合され、さまざまな領域間でさかんに情報がやりとりされている。そのため、覚醒時の錐体細胞はばらばらに発火している。したがって、低振幅で速い脳波が記録されるのだ。脳波の計測とは、この錐体細胞の発火の状態を見ていることであり、IつIつの細胞の発火がばらばらのタイミングで起これば、電圧は打ち消しあうので低振幅になり、また、活発に活動しているので速い波が記録されるのである。 ノンレム睡眠に入ると、錐体細胞は発火を止める相と、パースト状に発火する相を、同期して繰り返すようになる。睡眠が深くなるほど、発火は同期していく。この同期には錐体細胞と視床の間のループが機能しているらしい。その結果、錐体細胞に発生する電気活動が揃っていくので、記録される脳波は電位が大きくなっていき、周波数はゆるやかになっていく。 このように大脳皮質の活動という点からみると、覚醒とは、脳の各部がさまざまな情報を処理するために活発に、かつばらばらに動いている状態ということができる。ばらばらというと意味がないように思われるかもしれないが、ここでいう「ばらばら」とは、活動するタイミングが多様であるという意味で、膨大な情報を処理するためにそうなっているのだ。もうすこしくわしくいえば、大脳皮質は、「コラム」という機能単位からできている。1つのコラムは数万個のニューロンを含み、円柱ないし直方体の形をしている。覚醒時はさまざまなコラムが情報をやりとりしながら処理するためにいろいろなタイミングで発火しているといってもいいだろう。
いわばモノアミン作動性システムとコリン作動性システムは、大脳皮質の錐体細胞の「横のつながり」を抑制する(同期させず、ばらばらにする)ことによって、それぞれが機能をフルに発揮できるようにしていると考えてよい。その結果、覚醒が引き起こされるのである。

コラム6
大脳皮質

大脳皮質は腸のもっとも表層にある組織で、大脳全体を覆っている。大脳皮質にはよく知られているようにたくさんの「しわ」があるが、これを腸満という。脳溝は限られた容積の頭蓋骨の中で、大脳皮質の表面積を大きくするための構造である。このしわを仲ばせば表面積は約2000平方cmほどと、ほぼ新聞紙を広げた片側はどの面積になる。厚さは場所によって異なるが、1・5mmから4・5mmほどである。この厚さの中に、6層の構造がある。 大脳皮質には機能的にユニットと考えられるコラム構造(円柱構造)がある。6層構造は表面に平行な構造であるが、コラム構造は表面に垂直である。大脳皮質のさまざな部分にみられるコラム構造は、ある特定の情報を処理するための構造、つまりモジュールであると考えられている。1つのコラムには数万個の神経細胞が含まれ、特定の機能を担うニューロンからできている。とくに視覚情報が最初にたどり着く大脳皮質、一次視覚野でのコラム構造がもっともくわしく調べられている。 また、大脳皮質には明確な機能局在がある。たとえば、前頭葉の後ろ側には運動をつかさどる領域があり、前側には腸全体の機能を統轄する前頭前野がある。頭頂葉の前部には弾性感覚をつかさどる領域があり、後頭葉には視覚に関わる領域が、側頭葉には聴覚に関わる領域がある。このように部位によって特定の機能をもっていることが大脳皮質の大きな特徴である。

眠りを誘う脳内のしくみとは

逆に睡眠とは、「睡眠システム」と「覚醒システム」のバランスが睡眠システム側に傾いた状態である。では、何か「睡眠システム」の活動を刺激して、バランスを睡眠側にもっていくのだろうか? ここで少し、日常的な「眠り」のことを考えてみよう。あなたが毎日、健康な眠りをとっているのであれば、眠りの大切さを実感することは少ないだろう。もしあなたが眠りの大切さに気がつくとしたら、眠れぬ夜を過ごした翌日だろう。そして睡眠障害を患った方なら、毎日の眠りの大切さをさらに痛感することだろ 眠りの時間、あるいは胃が満ち足りたものでなければ、その「つけ」が翌日にくる。睡眠不足の日は何事にも集中力を欠き、活気に乏しい1日を過ごすことになる。われわれは自身の睡眠に対して、限られたコントロールしかできない。意志の力で1日くらいは眠りをこらえることができるかもしれないか、結局は眠らずに過ごすことはできない。また、睡眠不足の日の翌日は、よりいっそう眠気がましている。これは眠りがわれわれにとって非常に重要な役割をもっていることを示唆しているのだが、では、その眠りを誘うために、脳内ではどのようなことが起きているのだろうか?

ツー・プロセスモデルと睡眠物質
原始的な植物であるラン藻から哺乳類に至るまで、地球上の生物の多くは、ほぼ24時間の生体リズムをもっている。これを概日リズム(サーカディアン・リズム)という。概日リズムを刻むのは、生物がもっている体内時計である。体内時計はヒトなどの哺乳類の場合、脳の視床下部の一部である「視交叉上核」(図3‐8)というところにあることがわかっている(実際には生殖細胞をのぞくすべての細胞が時計をもっていることがわかっているが、視交叉上核の細胞から発信される信号が標準時のように全身の時計を同調させている)。

視交叉上核

視交叉上核

体内時計はおよそ24時間の周期で時を刻んでいるが、毎日、朝になれば、網膜から入ってくる光の情報が視交叉上核に伝えられることによって、時刻の修正が行われる。これを光同期とよぶ。また、この時計機構は、内分泌(ホルモン)によっても制御されている。複交父上核を制御するホルモンの代表的なものに、松果体から分泌されるメラトニンがある。松果体のメラトニン産生は、複文父上核の支配下にあり、メラトニン分泌は夜間にみられる。メラトニンの複文父上核への働きは、フィードバック機構の1つであり、このメカニズムによっても体内時計はきちんと機能するように制御されていることになる。 みなさんはおそらく夜間に睡眠をとり、日中は覚醒しているという生活を営んでいると思う。このことから、睡眠をとる休息期と覚醒している活動詞が体内時計によって制御されていると考えるのは自然なことである。しかし実際には、徹夜をしたり、休みの日に睡眠を長くとったりすることもある。われわれは体内時計の支配を超えて、柔軟に睡眠をとったりとらなかったりすることも可能なのである。 一方で、もう一度われわれの睡眠を観察してみると、眠気の出現や睡眠の深さは、その直前までの覚醒期間の長さや、心身の疲労度に影響を受けている。こうした現象を概念的に説明するために、「睡眠負債」(または「睡眠圧」)という言葉がある。覚醒して、心身が活動していると、睡眠負債はどんどん増えていくことになる。睡眠をとらない時間だけ、負債を生んているという考えである。徹夜をしたり睡眠不足になったりすると、ふだんよりも睡眠負債が大きくなる。そうなると睡眠を長く、しかも深くとって、睡眠負債を清算しなければならなくなる。しかし、この睡眠負債が実際にはどんなメカニズムなのか、あるいは物質なのかは、よくわかっていないのである。ただひとつには、脳内に「睡眠物質」、つまり睡眠を誘導する物質が蓄積していくことと関係かあるという説がある。 これらを考えあわせたうえで、睡眠か覚醒かは、体内時計からの信号と、睡眠負債とのバランスによって決まるという考え方があり、「ツー・プロセスモデル」とよばれている。これは1982年にボルベイらが提唱した考え方である(図3‐9)。

睡眠負債は眠ることによってのみ返済可能である。眠れば眠気は解消される。だが、それ以外の方法で解消することはいまのところ不可能である。

では、この負債とはいったい何か?20世紀初頭、日本の石森国臣とフランスのアンリ・ピエロンは、ほぼ同時期に、しかも独立に、「断眼中に睡眠物質が脳内に蓄積する」ことを実験的に証明した。長時間睡眠をさせないように(断眠)したイヌの脳脊髄液を別のイヌの脳内に投与すると、投与されたイヌが眠ることを発見したのである。このことは、断眼中に脳内に蓄積する物質、つまり睡眠物質の存在を示唆するものであった。彼らは、「脳内に覚醒中に蓄積される睡眠物質か眠気を引き起こす」と考えた。 その後、約1世紀の間に、約30種類にも及ぶ睡眠誘発作用を示す物質が報告されてきた。とくに、わが国では睡眠物質に関する研究がさかんに行われ、東京医科歯科大学の井上昌次郎教授(当時)の研究チームと京都大学の早石修教授(当時)の研究チームを中心に精力的に研究が進められた。現在に至るまで本当に決定的な睡眠物質は見つかっていないが、以下で述べるようないくつかの物質は睡眠物質として研究がつづけられている。 早石グループによって発見された睡眠物質「プロスタグランジンD2」は脳を覆っているクモ膜(軟膜)でつくられる。プロスタグランジンD2は当初体温を下げる物質と考えられていたが、クモ膜で産生されたプロスタグランジンD2は、膜の下を満たしている脳脊髄液を介して、前哨基底部に運ばれ、もう1つの有力な睡眠物質候補である「アデノシン」を放出する。アデノシンは炭素前野の睡眠を誘導するニューロンに働きかけて眠りが誘導されるのである。睡眠ニューロンが活動を始めると、図3‐7で想定したシーソーは睡眠のほうに傾き、睡眠が始まる。このことによりモノアミン作動性ニューロンとコリン作動性ニューロン、つまり覚醒システムの活動が弱まり、大脳皮質の賦活(脱同期)も弱まるのだ。 また、睡眠は全身の状態によっても強い影響を受ける。風邪を引いたときに眠くなることは誰でも経験かおるだろう。感染症にかかると、免疫反応が起こるが、そのときに産生されるインターロイキン−1も睡眠を誘導する物質と考えられている。この物質もプロスタグランジンD2の生成に関与している。 では、これらの中でも睡眠物質の「本命」とされるアデノシンについてみていこう。 脳内のアデノシン濃度は、睡眠中よりも覚醒中のほうが高い。そして、覚醒が持続すると濃度は高くなっていく。多くの神経伝達物質が分泌されるとき、ATP(アデノシン三リン酸)という物質が一緒に放出されるのであるが、このATPが分解されてアデノシンができるのである。そのほか、ニューロンの機能をささえるダリア細胞もアデノシンをつくる。そして睡眠中にはアデノシンは次第に減少していく。この点からも「睡眠負債」とアデノシンの動態は合致する。前述のシーソーのたとえで、睡眠側への重みが、日本庭園にしつらえてある「ししおどし」に水がたまるように増えていく様子を想像してみてほしい。ここで水にあたるものこそが、アデノシンである。このように、眠りのタイミングを決める1つの要素は、どれだけ長く覚醒していたかを反映する脳内のアデノシン濃度であると考えられている。 しかし、脳内にはもっと精密な時計がある。体内時計である。視交叉上核は、ほぼ正確に24時間のリズムを刻んでいる。「ししおどし」の水にたとえた睡眠負債はそれにくらべて大ざっぱな計時システムであるともいえる。そして体内時計は覚醒を引き起こすのに重要な働きをもっている。 つまり、睡眠のタイミングを決めるのは、体内時計による正確な計時と、睡眠負債による計時の2つのバランスである。アデノシンは視索前野、とくに腹外明視索前野(VLPO)という領域にあるCABA作動性ニューロンを刺激する。このニューロンは前述したように覚醒をもたらす脳幹のモノアミン作動性ニューロンやコリン作動性ニューロン、すなわち覚醒を促すニューロン群に投射しており、これらを強く抑制する。このメカニズムによって睡眠が引き起こされる。 このようにアデノシンは睡眠物質の有力な候補であることは間違いない。ただし、これに対しては以下のような強い反証もある。視索前野に存在するアデノシンの受容体(A2A受容体)を遺伝子操作で欠損させたマウスは、ほぼ正常に眠るのだ。これは眠りが非常に大切な機能であるために別のシステムを使って眠るのだと考えられているが、いずれにしても、アデノシンだけで睡眠負債が説明できるものではないことは明らかである。 また、睡眠負債の実体は、脳脊髄池中の物質などではなく、大脳皮質のニューロン自体の質的変化であるとの考えもある。たとえば、さきにも述べたように睡眠の深さは脳全体ではなく、局所的に制御されていることが最近わかってきた。つまり覚醒時に多く使った脳の領域ほど深い眠りがみられるのだ(ローカル・スリープ)。この現象は、脳脊髄池中の睡眠物質の蓄積では説明ができない。睡眠物質は脳全体に影響を及ぼすはずだからである。 以上、この章では、覚醒が脳幹に始まるモノアミン作動性システムとコリン作動性システムによって維持されていることをお話しした。また、祖宗前野に存在するGABA作動性ニューロンの働きによってこれらのシステムが抑制されて睡眠が促されること、そして、レム睡眠はコリン作動性システムのみによる大脳の強力な賦活によってもたらされることも理解していただいたと思う。 しかしながら、ここで述べたシステムのみでは、正常の睡眠/覚醒状態を維持することはできない。実はその制御には、ある決定的に重要な物質が欠かせなかったのだ。20世紀の終わりに、「オレキシン」という脳内物質が発見されたことにより、睡眠/覚醒制御の脳内機構の解明は飛躍的に進んだ。次の章ではオレキシンの発見と、その機能解析により何か明らかになったのかを述べようと思う。

睡眠障害の研究から生まれた大発見「オレキシン」

覚醒をもたらす物質「オレキシン」の重要な役割

オレキシンの発見

1996年、私はテキサス大学ハフード・ヒューズ医学研究所にいた。エンドセリンという血管収縮性のペプチドの生理機能について、その発見者であり、大学の先輩でもある柳沢正史教授のご指導のもとで研究をしていたのだ。しかし当時の私はちょうど、研究者としての今後の人生を考えるべきときでもあった。エンドセリンは柳沢先生が発見したものであり、その土俵で研究していても自分の世界は築けない。「ゲノムプロジェクト」という言葉が開かれるようになった頃だった。私は柳沢教授のご指導を仰ぎ、ゲノムから得られた情報をもとに新しい生理活性ペプチドを探すという研究も並行して行うことになった。「ペプチド」とは、アミノ酸がいくつかつながったものである。そのうち、細胞間の情報伝達を担う物質を「生理活性ペプチド」といい、エンドセリンもその1つだ。 生理活性ペプチドは、アミノ酸の配列の多様性により、さまざまな職能を担っている。ニューロンはそれぞれ神経伝達物質とよばれる情報伝達物質をもっていて、ペプチドを神経伝達物質とするニューロンもたくさんある。神経伝達物質(または神経調節物質)として働く生理活性ベプチドを、とくに「神経ペプチド」とよぶ。神経伝達物質にはほかに、これまでに登場したグルタミン酸やGABAなどのアミノ酸性の神経伝達物質や、ノルアドレナリンやセロトニン、ドーパミンなどのモノアミン系の神経伝達物質があるが、それらと並んで、神経ペブチドは脳において重要な役割をはたしている。とくに視床下部や大脳辺縁系にはたくさんの種類の神経ペプチドが存在している。 私たちは企業との共同研究を行い、企業が集めたデータベースから見つかった受容体の遺伝子情報をもとに、さまざまな受容体に対応する神経ペプチドをラットの脳内から探索していった。それまでは、生理活性ペブチドを見いだすには血管の収縮など、なんらかの生理的反応を指標にしていた。それに対応する受容体は、そのあとに見いだされてきた。しかし、私たちは、たくさんの遺伝子情報の中から未知の受容体の遺伝子を先に探し出し、これに対応するペプチドを見つけるという方法を開発した。これは当時においてはまったく新しい方法であった。 こうした作業によって最初に精製することができたのが、のちに私たちが「オレキシン」と名づけた神経ペプチドであった。私か苦労の末に、オレキシンの完全精製に成功したのは、1996年の8月終わり頃の某日、明け方の4時頃だった。眠っていないにもかかわらず、その活性に並々ならぬものを感じ、大変な高揚感をおぼえていたことを思い出す(いま思えば、その「高揚感」もまさにオレキシンによる作用だった!)。私たちは、オレキシンが視床下部の摂食中枢に局在することを見いだし、オレキシンを動物に投与すると摂食量が顕著に増えることをつきとめた。そこで、オレキシンは食欲の制御に関わるものであると考えた。ちなみにオレキシンとはギリシャ話で「食欲」を意味する「オレキシス」(Rロフ)という語に由来する。 このように、私たちはオレキシンを遺伝子情報から見いだした受容体に作用する神経ペプチドとして初めて固定したのだが、通常のような生理活性をもとに固定するという手順をとっていなかったため、オレキシンの公表は、その生理活性を完全に明らかにしてからにしようと考えた。具体的には、オレキシンの遺伝子を欠損(ノックアウト)させたマウスにどのような異常が起こるかを確かめてから公表する予定だった。現在では、ES細胞の遺伝子を操作して、特定の遺伝子を欠損したマウス(ノックアウトマウス)を作成して解析するという手法は、特定の遺伝子の機能を解明するための常套手段となっているのだ。 ところが、事態はそれを許さなかった。米国のスクリブス研究所のチームが、オレキシンと同じ物質をコードするメッセンジャーRNA(遺伝子から転写されてタンパク情報を伝える分子)を「視床下部に特異的に発現する遺伝子」として固定して、発表しようとしているという情報が入ったのだ。彼らはこの遺伝子にコードされる物質を「ヒポクレチン」と名づけたという。そこで私たちも急がねばならなくなり、1998年の2月、オレキシンを公表したのである。 当時、摂食行動の神経科学的メカニズムに研究者の興味が注がれていたこと、また、その同定の方法の斬新さから、オレキシンは大変な注目を集めた。そして、私だちか開発した受容体の遺伝子情報をもとに新規生理活性ペプチドを探しだす方法は、世界中の研究機関や企架か採用することとなった。だがその、方で、やがてオレキシンの研究は予想外の方向に展開していったのである。

コラム7
遺伝子改変動物

現在の生物学研究では、遺伝子改変動物が不可欠である。主として使われるのはマウスである。マウスには繁殖するスピードが遠く、遺伝的に均一である、というメリットがあるからだ。ヒトを含めた他の動物は、個体差が非常に大きい。これは遺伝子にたくさんの多型があるからである。しかし、実験で使うマウスは交配を重ねることによって、遺伝的に均」にしてある。だから1つの遺伝子を操作すれば、その影響を調べることができるのである。 遺伝子を改変するには、大きく分けて2つの方法がとられている。「遺伝子欠損マウス」(ノックアウトマウス)は、文字通り、特定の遺伝子を欠損させたマウスである。ES細胞とよばれる万能細胞に遺伝子操作をはどこし、マウスの胚に注入することによってつくられた「キメラマウス」を親として作成する。最近は全身ではなく、特定の組織や特定のタイミングで遺伝子を欠損させる技術も使われている。 もう一方の「トランスジェニックマウス」という方法は、特定の遺伝子を過剰に発現するように操作したマウスで、人工的につくった遺伝子を受精卵の核に注入して作成する。 遺伝子欠損マウスとトランスジェニックマウスはどちらも、特定の遺伝子の役割を個体レベルで解明するために欠かせないツールとして広く用いられている。 近年は、CRISPR/Cas9システムと呼ばれるゲノム編集技術が広く使われるようになり、遺伝子改変マウスの作成はさらに容易になっている。

オレキシンとナルコレプシー

生命科学の世界では、長年多くの研究者が取り組んでも解明できなかったことが、意外なところから急に明らかになることがある。また、事実を綿密に追究していくと、ほかの予想しなかった事実が副産物的に明らかにされることもある。この章で述べるオレキシンとナルコレプシーの関係も、そうした例の1つである。 1996年にオレキシンの精製に成功したあと、私はやむをえない事情により、後ろ髪を引かれながら帰国しなくてはならなくなった。だが幸い日本に帰ってからも、柳沢先生のご厚意により、筑波大学にてオレキシンの遺伝子の固定や前駆体の構造決定、生理作用の解析など、オレキシンに関わる仕事を継続することができた。 テキサス大ではその後、新たに柳沢研にやってきたリック・シメリがオレキシン欠損マウスの解析に着手していた。オレキシンの発見後も、完全にその生理作用を解明してから論文にするという方針で研究を進めていたため、オレキシン欠損マウスの作成とほかのさまざまな解析は、同時に進行していたのだ。私たちはオレキシンが摂食行動に関わることを見いだしていたので、当然、シメリらによる欠損マウスの解析もその観点で行われた。事実、オレキシン欠損マウスは、1日の摂食量が正常のマウスよりも5%ほど少なかった。そこで、どうして摂食量が少ないかを見きわめるヒントを得るために、夜間の摂食行動を赤外線ビデオカメラで撮影してみることにした。マウスは夜間に暗闇の中で摂食行動をとるからだ。 夜間のマウスの行動を見ていたところ、不思議な光景が観察された。活発に毛づくろいなどの行動をしていたオレキシン欠損マウスが、それらの行動の途中で、あたかもスイッチが切れたように倒れてしまったのだ。シメリらは、当初、これをてんかんの発作ではないかと考えた。てんかんならば、脳波によって診断できる。そこでオレキシン欠損マウスの脳波を記録したところ、てんかんに特有の波形はみられず、この奇妙な行動はてんかんの発作によるものではないことが判明した。

さらに記録された脳波からは、驚くべきことがわかった。オレキシン欠損マウスは、覚醒状態から、いきなりレム睡眠のような状態になっていること、そして発作はこのときに起こるらしいことが明らかになったのである。これまで述べてきたように、レム睡眠は必ず、先行するノンレム睡眠のあとにみられる。これはヒトでもマウスでも同じである。しかし、オレキシンの遺伝子をもたないマウスは、ときにいきなり覚醒からレム睡眠に入るという異常を呈したのだ。このときに活発な行動をやめて倒れてしまうのである。 いったい、オレキシン欠損マウスのこれらの奇妙なふるまいは何を意味しているのだろうか。その睡眠覚醒パターンを詳細に解析した結果、これはヒトの睡眠障害である「ナルコレプシー」という疾患において特異性の高い症状と同様の症状を呈していることが明らかになった。あとでくわしく述べるがナルコレプシーとは、「強い眠気」を主な症状とする病気で、気絶するように限ってしまうことを特徴とする。覚醒をきちんと維持できないという特異な病気なのだ。その原因はこの病気が確認されてから120年ほども、謎のままであった。 意外にもその謎は、私たちがオレキシンについて発表してから1年後の1999年夏、このように予想もしない経過をたどって明らかにされたのである。 ところで、私だちかオレキシンを発表した1998年といえば、レム睡眠の発見という睡眠学史上に残る偉業をはたしたアセリンスキー博士が不幸にして亡くなった年でもあった。博士はサンディエゴで車を運転中に、「居眠り」による事故で命を落としたのだ。なんという運命のいたずらであろう。当時の私たちはまだ、オレキシンの発見がその後の睡眠学に与える影響の大きさを想像すらできなかったが・・。

クロスした2つの発見
科学史に残る重要な発見のなかには、別々の人間が別々の場所で、まったく違うアプローチで進めていた研究がたまたま同じ結果にたどり着いた、ということがある。しかもときどき、ほぼ同時期にその結果が導きだされることがある。神の采配か、偶然のいたずらなのか、不思議なことである(実際には裏でさまざまな駆け引きか行われていることもままあるのだが……)。

実はオレキシンとナルコレプシーとの関連を見いだした研究は、そうした例の1つでもあるのだ。 スタンフオード大学医学部ナルコレプシー研究センターのエマニエル・ミニョー博士のグループは、長年にわたりナルコレプシーの原因を探るべく研究に取り組んでいた(伝統的にフランスにはすぐれた睡眠研究が多く、ミニョーもフランス人である)。彼がナルコレプシーの研究を姶めたのは20年前に遡る。パリ小児病院付属医科大学ネッケル研究所で薬理学を専攻したあと、1989年に渡米し、スタンフオード大学で睡眠の研究に従事することになったのだ。 当時、スタンフオード大学では睡眠障害研究センターの主任であったウィリアムこアメントが、イヌのナルコレプシーについて研究していた(デメントはレム睡眠の発見者の1人、クライトマンの弟子でもある。このページの最初の方で登場した不眠記録の保持者ランディ・ガードナーを観察した睡眠学者がデメントだ)。きっかけは、デメントがあるとき講義でナルコレプシーの話をしたところ、1人の女子生徒がやってきて、彼女が飼っているイヌがいままさに講義で聴いたナルコレプシーの症状を示していると言ったことだったという。 1973年にナルコレプシーのイヌの研究を始めたデメントは、やがて大きな成果をあげる。イヌのナルコレプシーも通常はヒトと同様、遺伝性ではない。しかし、デメントらはさまざまなナルコレプシー犬を交配させていくうち、遺伝的にナルコレプシーを発症するイヌを発見したのだ。 フランスからスタンフォード入学にやってきたミニョーは、この遺伝性ナルコレプシーのイヌを使って、連鎖解析を始めた。そして10年以上にわたる研究の末、ついにイヌのナルコレブシーを引き起こす遺伝的な原因がつきとめられた。ミニョーらは、イヌのナルコレプシーはオレキシン受容体の1つである「オレキシン2受容体」の遺伝子の異常によって引き起こされると結論づけた。

当時、ちょうどわれわれとスクリプスのグループがオレキシン作動性ニューロンの解剖学的特徴を明らかにしており、睡眠/覚醒に重要な働きをする脳幹のモノアミン作動性システムに軸索を伸ばすということも明らかにされていたが、このことも大きなヒントになったのは間違いない。イヌのナルコレプシーはオレキシン受容体の1つである、オレキシン2受容体の遺伝子の異常だったのだ。 ここにおいて、いずれも人工的につくりだされた、オレキシン遺伝子欠損マウスとナルコレプシー犬による研究がクロスすることになった。1999年の夏、2つの研究成果はほぼ同時に公表された。しかも、マウスではオレキシンの遺伝子を人工的に壊した結果、ナルコレプシーが起こることが明らかになり、イヌでは遺伝性のナルコレプシー犬の解析から、オレキシンの受容体の遺伝子に異常があることがわかったわけだ。イヌとマウスというかけ離れた動物において共通して、オレキシンという物質が関わる情報伝達システムの障害でナルコレプシーが発症するのである。

ナルコレプシーの症状とは

ここで、すこしくわしくナルコレプシーの説明をしておこう。1880年、フランスの医師ジェリノーは、過剰な眠気をきたすという特異な症例を報告した。その患者は、日中にもかかわらずしばしば耐えがたい眠気に襲われ、そうなるとどんな状況であっても眠ってしまう。しばらく眠ると普通に覚醒する。それだけでなく、大笑いをしたり、仕事でうまく取り引きがまとまったりしたときなどに、下肢の力か抜けて崩れ落ちてしまうという発作を起こす。また、トランプでよいカードを引くと、身体中の力が抜けて動けなくなって このような眠気と脱力発作をきたす疾患を、ジェリノーは「ナルコレプシー」(narcolepsy)と命名した。「しびれ、昏迷」という意味のnarkeと、「発作」という意味の lepsis(いずれもギリシャ語)の合成語である。実はナルコレプシーにあたると思われる症状は、17世紀にもウィリスが記録していて、おそらくはそれ以前にも存在していたはずである。 この疾患は、非常に特徴的な症状を呈する。ヒトでは思春期前後に発症する症例が多く、強い眠気を主訴とすることが多い。「強い眠気」というと、「私も眠いけど病気なのかしら?」などと思う人もいるだろう。しかし、ナルコレプシーの眠気は患者になってみなければ理解できないほど強烈なものだ。困ったことに日常生活のうえで「覚醒しているべきとき」に覚醒を維持できない。たとえば学生だったら、授業中に居眠りをしてしまう程度のことは、健康な人でもありうる。しかし、ナルコレプシーの眠気は健康な人にはありえない形で襲ってくる。かりに授業をしている先生が授業中に突然、強い眠気に襲われ、眠り込んでしまったらどうだろう。もし先生がナルコレプシーに罹患していれば、そういうこともありうるのだ。会社員だったら重要な会議での発表中に眠ってしまう、あるいは入社試験で重要な面接の最中に眠ってしまうことさえありえる。電車を待っているとき、ベンチに座って居眠りをしていても、健康な人であれば自分の乗るべき電車が到着したら、すぐに目を覚まして乗ることができるだろう。しかしナルコレプシーの患者さんは、逆に「電車が来た!」と思った瞬間に限りに落ちてしまったりする。当然、降りるべき駅で降りられないことなど普通に起こる。あるいは高いお金を払って、やっと手に入れたお気に入りのアーティストのコンサートに行き、始まったとたんに眠りに落ち、最後まで眠ってしまった……などということもありえる。 つまりこの病気では、健康な人なら緊張や興奮などで感情が高ぶって眠れないような状況でも、強烈な眠気に襲われて眠ってしまうことがあるのだ。 睡眠不足や疲れなどによる眠気は誰にでも起こるが、ナルコレプシー患者の場合は前日に十分な睡眠をとっていても、1日に何度も、睡魔は時と場所を選ばず襲ってくる。そして意志とは無関係にいつのまにか眠ってしまう。人生を左右する重大な局面でも、ときには歩いている最中にも限ってしまうのだ。ただ、眠っても通常は短時間で目が覚め、起床直後には爽快感もある。これは他の過眠症とは異なる特徴でもある。しかし、2〜3時間もすれば、またひどい眠気が襲ってくる。あるいは眠気という前兆をほとんど感じることなく、気絶するかのように眠り込んでしまうこともある(睡眠発作)。 もう1つ、この病気に特徴的な症状がある。「情動脱力発作(カタプレキシー)」とよばれるもので、突然全身の筋肉の力が抜けてしまうものだ。「情動]とは、いわゆる「感情」とほぼ同じ意味と考えてよい。つまり感情が高ぶると、筋肉に力が入らなくなってしまうのである。ひどい場合は立っていられなくなって、倒れてしまう。そのときにけがをしてしまう場合もある。引き金となる感情は、怒りである場合は少ない。多いのはうれしいとき、自尊心をくすぐられるようなことをいわれたとき、笑ったときなど、どちらかというとポジティブな感情の場合だ。驚いたときにも起こることがある。この症状はすべてのナルコレプシー患者にみられるわけではないが、80%以トにともない、また、この症状がみられた場合はナルコレブシーである可能性が非常に高く、診断的価値が高い症状である。「強い眠気」と「情動脱力発作」以外にも、ナルコレプシーには特徴的な症状がある。まず「入眠時幻覚」とよばれる症状である。寝大りばなに幻覚を見るのだが、実はこれが非常に鮮明な夢なのだ。健康な人の睡眠では、レム睡眠は通常、長い(60分以上の)ノンレム睡眠のあとに現れる。しかし、ナルコレプシーの特徴として、寝入りばなにすぐにレム睡眠に入ってしまうという異常がみられることがある。このときに見る夢は、まだ大脳皮質が覚醒時と同様に活動しているため、非常にリアルで実在感に富んだものになるのだ。通常のレム睡眠の場合は、大脳皮質、とくに前頭前野背外側部がノルアドレナリンやセロトニンなどの覚醒物質の影響から脱して活動が低下しているため、夢は記憶に残らないし、認知能力が低下しているため、おぼろげな印象しかない。しかし、これらの覚醒物質をつくる神経細胞が活動を止めても、覚醒物質の影響はすぐに完全になくなるわけではない。だから、覚醒状態から突然にレム睡眠のような状態に入ってしまうと、前頭前野か活動している状態で夢を見ることになり、非常に鮮明な夢を見ることになる。 また、このとき多くの場合、通常のレム睡眠と同様に筋肉の力は完全に脱力状態にあるため、当人は「金縛り状態」(睡眠麻痺)を体験することになる。通常のレム睡眠では前頭前野背外側部の活動が低下しているため「金縛り」を実感できないが、ナルコレプシーでは前頭前野が活動しているので、その状態を実感することになる。このとき見る夢は「窓から知らない人が侵入してきた」「雷に打たれた」など、恐怖感をともなう内容が多く、しかもリアリティーに富んでいる。それに加えて金縛り状態になるため、非常な恐怖を感じる場合がある。

ナルコレプシーは睡眠構築の異常

ナルコレプシーの発症は10代に多く、とくに14歳ごろにピークを示す。日本ではちょうど受験が近くなり、夜更かしなどで睡眠時間が減りがちなころである。そのため、発症しても周囲の人、いや本人ですら気づかない場合もある。眠気とたたかいながら居眠りと共存することが普通の状態のように思い込んでいるわけだ。そのため、発症してから医師にかかるまでに、さらには診断がつくまでに、かなりの時間を要することがある。 当然のことながらナルコレプシーは、患者に大きな不利益をもたらす。大事な局面で強烈な眠気が襲ってきたのでは、ミスも増えるし、集中力も保てない。勉強の能率が上がらず、本来の実力が発揮できなくなる。普通の人が眠気を感じる状況ではますます眠くなるので、「なまけもの」などのレッテルを貼られてしまうこともある。 さらには、家族を含め、この症状を理解してくれる人が周囲に少ないことも、患者にとって悩みとなる。また、ナルコレプシーではうつなどの精神症状や、糖尿病の合併頻度か高いといわれている。 ナルコレプシーは脳波を含むポリグラフで診断されるため、「脳波に異常がある」という誤解も多い。しかし、脳波そのものに異常があるわけではなく、睡眠構築の異常なのだ。したがって診断には、一晩眠った状態でのボリソムノグラフィー(→図2‐1)による睡眠構築の判定が必要になる。また、ナルコレプシー患者の睡眠も通常の睡眠も、生理的過程としては同じである。ナルコレプシーは睡眠そのものが異常なのではなく、睡眠と覚醒の現れ方のパターンに異常があるということになる。ヒトは通常、1日に1回睡眠をとる動物である。通常はI回に7時間ほど連続して眠り、十数時間にわたり起きているという生活をしている。しかしナルコレブシーの人は1回に長い時間起きていることができず、短時間の断片的な覚醒と睡眠を繰り返すのが特徴である。昼間は頻繁に眠りに落ちてしまうが、逆に夜間は頻繁に目が覚めるということがある(図4‐3)。

ナルコレプシー患者と健常者の睡眠パターン

ナルコレプシー患者と健常者の睡眠パターン

発症がピークを示す14〜16歳での有病率は米国でO・05〜O・2%(日本ではO・16〜O・18%)と推定されている。家族性に発症する例も5%みられるが、孤発性のケースがほとんどで、特定のHLA(ヒト白血球表面抗原)遺伝子型(DR2やDRB1*1501とDQB1*0602)を有する割合が健常な人に比べ有意に高いことか知られている。HLAとナルコレプシーの関連を世界で最初に示しだのは、1984年、東京大学(当時)の本多裕氏のグループによる研究だった。オレキシンの欠乏がナルコレプシーを引き起こす 前述した1999年のマウスやイヌにおけるナルコレプシーの発見から、ヒトでもオレキシンの機能異常がナルコレプシーの原因である可能性が高いことが容易に想像できた。そして早くも翌年には、それが疋しいことが明らかになる。現在では、90%以上のナルコレプシー患者で、オレキシンをつくる神経細胞が変性‘脱落していることがわかっている。具体的には、ナルコレプシー患者の脳脊髄液は90%以上の割合で、オレキシンAが非常に低値である(110回/ml以下)。この発見はスタンフオード大学の西野祐治博士らの研究による。すでに米国では、2005年より脳脊髄液中のオレキシンA濃度測定がナルコレブシーの診断に使われるようになっている。 こうして、ナルコレプシーの原因は、マウスやイヌ、そしてヒトの場合でもオレキシンの欠乏にあることがわかった。このことから、少なくとも哺乳類においては、オレキシンは広く覚醒の維持機構に関わっているものと考えられる。オレキシンが欠損することによって、覚醒がうまく維持できなくなるのだ。ということは、覚醒という状態はオレキシンかうまく機能することによって、適切に維持されているとも考えられる。 ナルコレプシーという疾患の原因を探る研究は、このようにオレキシンという物質が覚醒にはたす重要な役割の発見につながった。それではオレキシンは、脳幹のモノアミン作動性システムとコリン作動性システムによる睡眠/覚醒の制御メカニズムと、どのように関わって覚醒状態を制御しているのだろうか?ここからが、この章の本題である。

オレキシンは覚醒を安定化させている

モノアミン作動性ニューロンとコリン作動性ニューロンが覚醒と睡眠をコントロールしていることは、すでに述べた。実は、オレキシンの作用はこれらのニューロンと密接な関係がある。 オレキシンは、視床下部外側野という部分に存在するニューロンによって変生されている。しかし、オレキシンの抗体を作成して、オレキシンを産生するニューロンの軸索を染色してみたところ、このニューロンは脳の至るところに軸索を伸ばしていることがわかった。そしてオレキシンの受容体は、ノルアドレナリンをつくる青斑核、セロトニンをつくる縫線核、ヒスタミンをつくる結節乳頭体などの部分に強く発現していた。これらはいずれもモノアミン作動性ニューロンである。 そこで、これらのニューロンの電気活動をモニターしながらオレキシンを作用させると、ニューロンの発火頻度は非常に増えた。また、オレキシンをつくるオレキシン作動性ニューロンは覚醒時に活勤し、逆に睡眠時は停止していることもわかっている。 つまり、オレキシンは、こうした覚醒をつかさどるニューロン群に働きかけることにより作用していると考えられるのである(図4‐4)。

ただし、モノアミン作動性ニューロンの発火は、オレキシンだけによって維持されているわけではない。もしそうなら、ナルコレプシー患者のようにオレキシンがほとんどなくなってしまったら、決して覚醒することはなくなってしまうだろう。現実にはナルコレプシーは、睡眠/覚醒のスイッチの切り替えが非常に不安定になり、切り替わりやすくなっている状態である。つまりオレキシンは、覚醒のスイッチそのものではなく、覚醒のスイッチが入ったあとに、スイッチか不適切なタイミングで切り替わらないように、いわば覚醒状態を安定化する(つまり、睡眠に移行することを防ぐ)働きをもっているのだと考えられる。モノアミン作動性ニューロンは、もともと自動的にゆっくりと数ヘルツの周波数で律動的に発火する能力をもっている。オレキシンはこの発火がとだえてしまうのを防いでいるとも考えられる。モノアミン作動性ニューロンの活動がとだえないように応援する物質といってもいいだろう。

「覚醒」と「睡眠」のほんとうの関係

では、オレキシンはどのように覚醒状態を安定化させているのだろうか。視索前野の睡眠中枢(GABA作動性ニューロン)と、脳幹の覚醒システム(モノアミン/コリン作動性ニューロン)は、相互に拮抗しあうシーソーのような関係にある。 そこで、健康なヒトでは、オレキシン系が適切なときに覚醒システムに助け舟を出し、シーソーの覚醒側を下に押し下げることにより、覚醒相を安定化することが可能になっているのだ。つまり、通常は睡眠システムのほうにアドバンテージをもたせておき、覚醒が必要な場合にのみ、オレキシンが覚醒システムを強力にあと押ししていると考えてもよい。 たとえるなら、重い「睡眠システム」と軽い「覚醒システム」がシーソーの上に乗っていると想像していただきたい。通常は、睡眠システムのほうに傾いているのだが、覚醒が必要なときには、まず大脳辺緑系などからの信号により覚醒のスイッチが入り、その後、オレキシンが覚醒システムを強力に手助けして、シーソーを覚醒側に傾けた状態で固定するのである。巨人の手がシーソーを下に押していると想像してもいいだろう。そして手を離せば、シーソーはまた睡眠側にスムーズに傾くのだ。このシステムであれば、覚醒相、睡眠相ともに安定性を確保することが可能になる、ということになる(図4‐5)

それでは、なぜナルコレプシーのようにオレキシンがなくなってしまっても、覚醒ができなくなったり、ずっと眠りつづけたりすることがないのか、という疑問が生じるだろう。 神経系にはつねに可塑性という性質があり、1つの入力を失うとそれを補うような変化が生じる。そのためナルコレプシーでは、オレキシンの助けがなくても覚醒できるように、モノアミン作動性ニューロンに慢性的な変化が生じている。慢性のオレキシン欠損状態では、モノアミン作動性ニューロンは可塑性により、オレキシンかなくても十分な神経活動ができるような変化が起きているのである。実際にナルコレプシーマウスでも、青斑核のノルアドレナリン作動性ニューロンは、覚醒時の発火頻度は正常か、むしろ正常のマウスよりも増えていることがわかっている。このことは、オレキシンがない状態に適応するために、オレキシン作動性ニューロンの下流のニューロンが変化を起こしていることを示している。しかし、その状態では、睡眠/覚醒の切り替えが微妙なバランスで行われることになり、睡眠相・覚醒相ともひどく不安定になってナルコレプシーの病態が現れてしまうのである。つまり、もともと睡眠/覚醒を切り替えるスイッチじたいは炭素前野の睡眠ニューロンと脳幹のモノアミン/コリン作動性ニューロンで構成されているので、オレキシンがなくても切り替えに支障があるわけではない。しかし、オレキシンという安定化システムが欠けると、「覚醒」「睡眠」の状態を安定して維持することができなくなってしまうのである。 このように、オレキシンという物質が存在し、覚醒制御システムを適切なタイミングで刺激することにより覚醒状態が発動され、必要なだけ維持される。だから、オレキシン作動性ニューロンが欠失したナルコレプシーでは、覚醒の必要なときに覚醒が維持できなくなってしまうのだ。こうしたオレキシンによる覚醒維持のメカニズムをさらに見ていくことで、そもそも「覚醒」とはどういうものなのか、その杢質的な意味までが明らかになってきた。オレキシンは「覚醒の必要なとき」に覚醒システムを手助けすると述べたが、では「覚醒の必要なとき」とはどのようなときなのだろうか。 次章では、オレキシン作動性ニューロンの制御メカニズムを通してわかってきた、覚醒というものの意義を考えてみたいと思う。

オレキシンが明かした覚醒の意味

「注意」「行動」のために必要な覚醒

あなたは「なぜ起きて(覚醒して)いるのですか?」と聞かれたら、なんと答えるだろうか。「仕事をするため」と答えるかもしれない。あるいは、スポーツをするためかもしれないし、テレビを見るためかもしれない。共通しているのは、何かに「注意」を向ける必要があるときだ。注意に覚醒は不可欠である。英語には、「現実をよく見ろ!」と人に注意を促すときに使う『.Wake up and smell the coffee! いうイディオムがある。このように覚醒(wake up)と注意には、切っても切れない関係がある。実際に、覚醒をつかさどる物質、モノアミンやアセチルコリンは、注意にも非常に深く関わっている。 そして当然ながら、「注意」は何かの「行動」を起こすためのものでもある。それがどのようなものであっても、行動するにはやはり覚醒は不可欠である。 つまりヒトを含む動物は、何かに注意を向けるために、そしてなんらかの行動(アクション)を起こすために、覚醒しているのだ。 動物はなぜ行動を起こすのか。まず、食物を得なくては生きていけない。覚醒し、行動して食物という「報酬」を得る必要があるのだ。野生動物なら食物を得るのには相応の危険をともなうために、高い覚醒レベルが必要である。人が仕事をするのも「食べていくため」、という言い方もできるだろう。そして、これも大切なことだが、動物は「危険」から身を守らなくてはならない。野生動物はつねに捕食者に襲われる危険かある。それを避けるためには、やはり注意と行動が必要であり、覚醒レベルを上げる必要があるのだ。危険に対する恐怖や不安などの「情動」は、あとで述べるように覚醒を維持するうえで重要なフアクターとなる。感情が高ぶるような場面や、動機にもとづいた行動を起こす場面では、とくに高い覚醒レベルが必要とされる。 このように覚醒は、食物などの報酬を探索する行動や、恐怖や不安などの情動に深く関係している。つまり「食っていくため」、そして「食われないため」に、覚醒か必要なのだ。 遂に満腹で、しかも安全な状態であれば、脳や身体を休めるために睡眠をとるチャンスである。睡眠は、安全と適切な温度が確保された環境で行われる。睡眠をとるために適した時間は動物の生活環境によって異なるため、頃日リズムによっても制御されている。つまり、昼行性の動物では昼間に摂食行動を行い、夜間に休息期が多くなり、夜行性の動物では逆に夜間に主に摂食行動を行い、昼間に睡眠か多くなる。 こうした睡眠と覚醒の関係をみていると、極論すれば、動物やヒトにとっては「睡眠をとっている」状態こそがデフオルトであり、特別に必要なとき(つまり注意や行動が必要なとき)に、「無理をして」起きているのだという考え方もなりたつ。睡眠/覚醒の切り替えスイッチとなるシーソーは、通常は睡眠のほうに傾いていて、オレキシン作動性ニューロンが覚醒システムを手助けすることによって覚醒側にスイッチが切り替わることを述べた。コンピューターも必要のないときには、スイッチをオフにしておくのが普通だろう。いずれにしても睡眠と覚醒は、外界の環境(危険の有無や、食物などの報酬が得られるかどうか)や動物の内部環境および概日リズムに応じて、適切にコントロールされなければならないのである。 ナルコレプシーは、こうした覚醒維持機構に異常が生じたことによって起こる精神・神経疾患であり、「覚醒を必要とする場面」において、オレキシンが欠損しているために覚醒を適切に維持することができないことは前の章で述べた。 オレキシンの機能は多岐にわたるが、もっとも中心的な機能は覚醒を促し維持することである。そして交感神経を活性化して、ストレスホルモンの分泌も促す。モチベーションを高めて、全身の機能を向上させる。意識を清明にし、注意力を引き出す。こうした機能は動物が、どんな行動をするべきかを選択する過程(ディシジョンメイキング)に深く関係している。あるいは、行動や身体機能をサバイバルに向けて変換していく機能だともいえる。 覚醒とは、このように脳だけでなく全身の機能に関わるものであり、オレキシンはこうした覚醒と深く関わる物質である。そこでオレキシンの機能を注意深く調べていくと、覚醒ということの生理的な意味がはっきりしてくる。 さきほど「注意」という言葉が出てきたが、注意には、前脳基底部という部分のコリン作動性ニューロンが重要な役割をしている。これらのニューロンは覚醒時に活発に発火しているが、とくに注意を必要とするときに活動か高まる。前脳基底部というのは、文字通り、大脳の基底部にあり、ここにはアセチルコリンを神経伝達物質としてもつ、コリン作動性ニューロンが散在している。これまで何度も登場した脳幹(橋)のコリン作動性ニューロンとは、同じアセチルコリンを神経伝達物質としてもっているが別の集団である。これらのニューロンは大脳皮質や視床において、神経活動やシナブス効率を・調節している。たとえば、視覚野のニューロンは動物が注意を高めて何かを注視するときに活動が上昇するが、アセチルコリンがこのことに関わっているらしい。大脳皮質や視床にアセチルコリンが働くと、それらにあるニューロンは同期性を失って、バラバラに活動できるようになり、大量の情報が処理できるようになる。これが、注意が高まっているということである。オレキシンはこれらのコリン作動性ニューロンを興奮させることが知られていて、また、逆に一部のオレキシン作動性ニューロンはアセチルコリンによって興奮する。 これらのことから、注意が発動している場合には、前哨基底核のコリン作動性ニューロンとオレキシン作動性ニューロンとが相互に興奮させる回路が活動している可能性がある。オレキシンは同時に脳幹のモノアミン作動性ニューロンをも刺激して、覚醒を高めるというわけだ。

オレキシン作動性ニューロンを制御するメカニズムとは

オレキシン作動仕ニューロンの機能を調べるために、私たちはさまざまな手法でオレキシン作動性ニューロンの入出力系を明らかにしてきた。 出力系では、オレキシンは脳幹のモノアミン作動性システムやコリン作動性システムに出力し、これらの職能を高めることによって覚醒を維持している。 では、オレキシン作動性ニューロンヘの入力系はどうだろう。オレキシン作動性ニューロンはどのようなメカニズムでその活動を制御されているのだろうか。オレキシン作動性ニューロンの活性を制御するシステムを理解すれば、オレキシン作動性ニューロンがどのような状況で発火しているのかが明らかになる。 私たちは、オレキシン作動性ニューロンがどのような物質によって制御されるのか、そしてどのような神経システムから神経性の入力を受けているのかを明らかにしてきた。そのシステムを俯瞰することにより、覚醒制御系の生理的な意義が理解できるはずである。換言すれば、生物にとって「覚醒」がどんな意味をもっているのかが明らかになる。それでは、ここでオレキシン作勤仕ニューロンを制御するメカニズムについて説明したい。

「情動」がオレキシン作動性ニューロンを刺激する

あらためて説明しておくと、ニューロン(神経細胞)は情報処理素子である。樹状突起という部分でさまざまな人力を受けて、軸索という部分でほかのニューロンに出力している(↓コラムー)。樹状突起が他のニューロンの軸索から情報を受ける部分はシナプスとよばれる。軸索の末端からは、神経伝達物質という化学物質が分泌され、他のニューロンの樹状突起にある受容体という分子に結合することによってその神経を興奮させたり、抑制したりするわけだ。1つのニューロンは数万ものシナプスを介して情報を受けている。それでは、オレキシン作動性ニューロンはどのような入力を受けているのだろうか。 オレキシン作動性ニューロンはまず、大脳辺縁系から多くの入力を受けている。大脳辺縁系は情動(感情)をつかさどるシステムである。大脳辺縁系のうち、扁桃体とよばれる部分は感覚系からの入力を受けて、その情報が自分にとって好ましいかどうかを判定している。そして扁桃体とは「情動」の生成に大きく間わっている部分でもある。情動とは少々聞き慣れない言葉かもしれないが、「感情」とほぽ同じと考えてさしつかえない。「感情」は主観的な言葉であるため、科学的な観察をもとにその動物の感情にあたるものを推し量ったものが情動である。 皆勤(感情)には喜怒哀楽があるが、どの情動も覚醒レベルを上げることが知られている。動物は恐怖や不安があれば眠っているわけにはいかない。危険な対象が身近に存在するならば、眠っていたらひとたまりもないからだ。逆に報酬性の情動が発動しているとき、つまりうれしいこと、喜ばしいことが期待できる場合も眠っているわけにはいかない。チャンスを逃してしまうからだ。このように、覚醒レベルは情動に大きく影響を受けている。 では、どのようにして情動は覚醒を支配しているのだろう?先に述べたように情動は扁桃体によってもたらされ、オレキシンをつくるニューロンは扁桃体から直接および間接的に多くの入力を受けている。扁桃体が、感覚系からの入力をよくも悪くも「非常事態」(「寝ているわけにはいかないぞ!」)と判断したとき、オレキシン作動性ニューロンを剌激して興奮させ、そのことにより、覚醒レベルを維持するのである。 オレキシン作動性ニューロンの発火頻度が増加することによって引き起こされる現象は、覚醒レベルの上昇だけではない。「情動」が発動すると、扁桃体は視床下部を介して、交感神経系の活動レベルを上げる。感情が高ぶると、心臓がドキドキすることを誰もが体験するであろう。これは、交感神経系の活動が心機能を高めているからである。しかし、オレキシンが欠損している動物では、皆勤にともなう交感神経系の興奮がいちじるしく減弱しているのである。このことから、オレキシン作動性ニューロンの興奮を介して交感神経系の活動の上昇も引き出していることがわかる。オレキシンが引き起こすこうした心身の変化も、大脳辺縁系がもたらす情動をかたちづくっていることになる。 しかし、大脳辺縁系によるオレキシン作動性ニューロンの興奮が慢性的に働いている場合、不眠症におちいることになる。大きな災害にあった大が、その後もどんなに心細いかを訴えるとき、「心配で夜も眠れない」ということがある。この「脹れないほどの不安」という表現は、言語、文化、民族にかかわりなく、ユニバーサルなものなのだという。日常でも、試験やここぞという重要な会議などの前日に寝つけないことは誰でも経験するだろう。これも不安が原因で心が高ぶっていることが原因だ。 このように原因がはっきりした心配ではなく、意識には不安や心配がのぼっていなくても、脳はそうした要素を感じつづけていることがある。ストレスが慢性的にかかると、情動反応は起こっていても、海馬のシステムが変調をきたすために記憶があいまいになって、何か不安や心配の原因になっているのか本人が実感できなくなることがあるのだ。これが不安性障害であり、不眠をともなうことも多い。意識は、自分に起こっていることすべてを把握しているわけではない。むしろ、ごく.部にしか意識の支配は及んでいないと考えるほうか正しいと思う。 このように、短期的には恐怖や喜びのような情動が、そして慢性的には不安が、大脳辺緑系からの出力によりオレキシン作動性ニューロンを興奮させる。これらは直接、モノアミン系にも影響を与える。このように覚醒は感情と深い関係があるのだ(図5‐1)。

日本で発売された世界初のオレキシン受容体桔抗薬

みなさんは眠れなくて困ることがあるだろうか?不安なとき、明日何か大きなイベントかあるとき、わくわくしているとき、あるいは失恋したあとなどは、誰でも眠れなくなったり、夜中に目が覚めてしまったりすることはあるだろう。これか前述した大脳辺緑系の働きだ。 しかし、明確な原因が自分で思いつかないのに、毎日よく脹れない場合は、「不眠症」という病名がつく。不眠は5人に1人が悩まされるという非常に多い疾患である。不眠症の原因はいろいろだが、背景にストレスや不安を抱えていることが多い。本人は自覚していなくても、ストレスや不安は脳に影響を与えていることがあるのだ。ストレスや不安は感覚系を通して脳に影響を与えるわけだが、それをストレス、不安と認識するのはやはり大脳辺緑系で情動をつくりだす扁桃体である。 前にも述べたように、この大脳辺緑系の不安メカニズムが慢性的に働いている場合、不眠症におちいることになる。こうした状態が続くと、今度は「不眠」じたいが恐怖や不安になり、慢性的な不眠症になってしまう。大脳辺緑茶からの出力はオレキシン作動性ニューロンに脂ぎかけて覚醒を引き起こしているのだから、このオレキシンが働くのを薬物などで邪魔すれば、不眠症が治療できると考えられる。 2014年末に、オレキシン受容体に結合してオレキシンの働きを阻害するオレキシン受容体枯抗薬(スボレキサント)が、不眠症治療薬として世界に先駆けるかたちで本邦にて発売された。従来の不眠症治療薬は、その95%がGABA受容体に結合してGABAの働きを高めるものであったが、オレキシン受容体拮抗薬が登場したことにより、不眠症治療薬の選択肢が広がり、不眠症の薬物治療は大きな変化を迎えつつある。

なぜ空腹だと眠れないのか

当初、オレキシンは摂食行動を制御する物質と考えられていた。その後、ナルコレプシーとの関連が明らかになり、覚醒/睡眠の制御に重要な役割をはたしていることが明らかになったわけだ。しかし、摂食行動と覚醒は、もともときわめて深い関係がある。

事実、満腹になると眠くなることは誰でも体験しているだろう。逆に、減量のためにダイエットをしているときに眠れず困った、という人もいると思う。食欲と覚醒の関連は、赤ちゃんを思い浮かべてみるとよくわかる。赤ちゃんは1日の大半を眠って過ごすか、ミルクがほしくなると起きて泣く。そしてお腹がいっぱいになればまた眠ってしまう。このように栄養状態と睡眠には深い関係があるのだ。 オレキシン作勤仕ニューロンの制御システムが解明されることにより、この深い関係はさらに明確になった。オレキシン作勤仕ニューロンは、あとで述べるように全身の栄養状態をモニターすることができ、さらに栄養状態によってその活動を変化させることが明らかになっているのだ。 たとえば長く食物を摂らないでいると、血液中のグルコース濃度(血糖値)が低下していく。この変化はそのまま脳脊髄液中のグルコース濃度の変動につながる。グルコース濃度が低下すると、オレキシン作脂性ニューロンの発火頻度は増える。逆に、脳脊髄液中のグルコース濃度が上昇すると、オレキシン作動性ニューロンは抑制されてしまう。つまり、空腹時には覚醒物質であるオレキシンをつくるニューロンは、活発に活動(発火)していると考えられる。 マウスにしばらく餌をやらないようにすると、本来なら休眠期であるはずの昼間にも動き回るようになる。これは、覚醒レベルが上昇することによるものである。実際に睡眠時間も減るのだ。しかし、遺伝子操作でオレキシンをつくれないようにしたマウスではこのような変化が起こらない。つまり、絶食による空腹の情報が、オレキシンを介して覚醒レベルを上昇させているのだ。野生動物は空腹になると、餌を探す行動をしなくてはならない。このとき、覚醒レベルを上げて意識をクリアにし、交感神経を興奮させて身体機能を上げ、行動をサポートしなくてはならない。餌を探す行動には危険がつきものだからだ。この機能にはオレキシン作動性ニューロンか不可欠である。 なお、草食動物の多くは睡眠時間が短く、ウマやシカなどは1日の睡眠時間が2時間から3時間である。これは、カロリーの少ない植物をエネルギー源とするため、十分な栄養を摂るには多くの時間を覚醒して食事にあてなくてはいけないからだという説がある。もちろん、草食動物は肉食獣に捕食される危険にさらされているため、危険から身を守るために覚醒を維持する必要があることも理由である。逆に、高カロリーの餌を摂る肉食獣の睡眠時間は長い。これらも、摂食行動と覚醒に関連があることを示唆している。 このように子芋ルギー状態と睡眠/覚醒には深い関係があり、そこにはオレキシンの職能が深く関わっているのである。

三位一体の巧妙なシステム

視床下部の祖索前野とくに腹外開祖索前野(VLPO)には、睡眠時にのみ活動するGABA作動性ニューロンか存在する。これらの睡眠ニューロンは、覚醒システムであるモノアミン作動性ニューロンを抑制する。さらに、オレキシン作動性ニューロンにもこれら睡眠ニューロンからの抑制性の人力かおることが明らかになっている。つまり睡眠ニューロンは、モノアミン作動性ニューロンとオレキシン作動性ニューロンの両方を抑制することによって、睡眠をつくりだしているのだ。睡眠ニューロンと覚醒システム、オレキシン作動性ニューロンは相互に関連しているのである。別の見方をすると、覚醒システムに対してオレキシン作動性ニューロンがアクセル、睡眠ニューロンがブレーキとして働いているといってもよい。 覚醒/睡眠という脳の2つの作動モードを適切に切り替え、かつ適切なモードで「固定」するには、睡眠ニューロン、モノアミンおよびコリン作動性ニューロン、オレキシン作動性ニューロンの三位一体のシステムが必須である。オレキシンは、覚醒のスイッチを手助けして、さらに覚醒状態を安定させておく役割をもっている。オレキシン作動性ニューロンとモノアミン作動性ニューロン(覚醒システム)は相互に連絡しているが、その結合のしかたには特色がある。オレキシン作動性ニューロンはモノアミン作動性ニューロンを興奮させるが、モノアミン作動性ニューロンは逆にオレキシン作動性ニューロンを抑制するのだ(図5‐2)。

このように、自己を活性化するシステムに対して、抑制性のシグナルを送るシステムを「ネガティブフィードバックシステム」という。こうしたシステムは、構成する要素の変動が少なくなるように制御するのに都合がよい。オレキシン作動性ニューロンとモノアミン作動性ニューロンの関係についてみると、覚醒時には、モノアミン作動性ニューロンは活発に発火している。その活動が大脳に働きかけ、覚醒を維持していることになる。モノアミン作動性ニューロンの活動が低下すると、覚醒レベルが落ちることになるが、このとき、必然的にオレキシン作動性ニューロンヘの抑制も弱くなることになる。結果として、オレキシン作勤仕ニューロンの発火頻度は一時的に増加する。そうなると、オレキシン作動性ニューロンはモノアミン作性仕ニューロンを興奮させるので、結果としてモノアミン作動性ニューロンの活動はもとの状態に戻ることになるのだ。 このメカニズムは、モノアミン作動性ニューロンの活動が低下してしまいそうなとき、つまり、覚醒が途切れて睡眠に傾きそうな状況のときに、覚醒システムをちょうどピアノのペダルのようにサステインさせる(音を持続させる)機能ということになる。

コラム8
モノアミンと精神疾患

アミノ酸はアミノ基とカルボキシル基をもっているが、モノアミンとは、アミノ酸からカルボキシル基がはずれた構造をもった生理活性物質である。アミノ基を1つ(モノ)もつので「モノ」アミンというわけだ。 モノアミンは全身でさまざまな生理活性を発揮するが、脳内でもさまざまな機能をもっている。脳内のモノアミンにはドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニン、ヒスタミンが含まれる(ヒスタミンは2つのアミンをもつので厳密にはモノアミンではないが、便宜上モノアミンに含めることが多い)。このうちドーパミン、ノルアドレナリンはカテコールアミン類、セロトニンはインドールアミン順に属する。

モノアミンはすべて、覚醒と関係が深いが、それぞれの特徴を紹介すれば、ドーパミンは報酬系(幸福感・達成感)、ノルアドレナリンは精神的興奮(高揚感・怒り・恐怖)、セロトニンは安心と関連が深い。つまり、気分との明確な関係がある。 覚醒は、これらモノアミン系の神経伝達物質(神経調節物質)によってつかさどられている。しかも、これらの物質の変調は精神疾患とも深い関係がある。たとえば統合失調症はドーパミンと関連があり、治療にはドーパミンの捨抗薬が使われている。また、セロトニンやノルアドレナリンはうつ病と関連していて、うつの治療にはこれらの物質の作用を高める薬物が使われている。 このようにモノアミンは精神機能や気分に深い関係がある。このことからも、覚醒システムと精神機能とは深い関係があることがわかるだろう。

体内時計とオレキシン

以上のように、オレキシン作動性ニューロンは大脳辺縁系や睡眠中枢からそれぞれ興奮性および抑制性の入力を受けて、適切な活動状態に制御されている。しかし、みなさんも実感しているように覚醒レベルには1日のうちでも変動がある。これはおそらく、体内時計からのシグナルにより制御されていると考えるのが自然である。脳内の時計は視床下部の視交叉上核にある。しかしながら、視交叉上核からオレキシン作動性ニューロンヘの直接の入力があるということは、はっきりと証明されていない。おそらくは、視交叉上核からの情報は、視床下部の「背内側核」という部分でニューロンを乗り換えて、オレキシン作動性ニューロンに入力されている可能性が高い。実際に、ラットなどの動物を使って調べると、オレキシン作動性ニューロンの発火頻度は、夜間に高く、昼間に低くなっていることが示されている。夜行性であるラットが覚醒すべき時間に、活動か高まっていることかわかる。 ただし、前述のようにオレキシンシステムは、覚醒システムがオンであるべきときにその活性を維持するように働く、いわばスタビライザー(安定化装置)のような働きをしている。そのため体内時計からの出力は、覚醒システムには入力しているが、オレキシン作動性ニューロンにはあまり影響を及ぼしていない可能性もある。つまり、体内時計からのシグナルはモノアミン作動性ニューロンやコリン作動性ニューロンの活動に影響するが、オレキシン作動性ニューロンには直接には大きな影響を与えていないのかもしねない。モノアミン作動性ニューロンの活動の口内変動が、間接的にオレキシン作動性ニューロンの活動の口内変動をつくっているのかもしれないのだ。体内時計とオレキシン作動性ニューロンの関係については、今後の研究が待たれる部分である。

コラム9

大脳辺縁系①「こころ」をつくる場所

大脳辺縁系は、いわゆる「こころ」をつくりだす脳の構造だと考えられている。大脳辺緑茶には、海馬という記憶に関わる部分と、扁桃体というものごとの「好き・嫌い」を判定する部分が存在する。 扁桃体は感覚刺激を得て、それを本能や記憶と照らし合わせながら「好き」と「嫌い」を判別する。これは、もともとは生存確率を高めるため、感覚系で得られた情報に近づくべきか、逃げるべきかを判断するための機能だったと考えられる。それが、ヒトにおいては喜怒哀楽の「感情」をつくりだしているのだ。感情が生まれると自律神経系への出力を介して心臓の機能が変化するので、太古のヒトは「こころ」が心臓にあると考えた。 ヒトにはなぜ「こころ」があるのか?それは、行動の決定(ディシジョンメイキング)のためであると考えられる。人生の岐路に立つような場面で、あるいはそこまでいかなくても何か二者択一の選択を迫られた場合に、理性的な判断をしようとしていたら、いつまでたっても結論が出ないことが多い。物事にはメリットとデメリットの両面があるのが常だからだ。だからこそ「こころ」を使って、直感的に「好き』なはうを選択することが求められる。ここに大脳辺繰糸の機能の必然性が隠されているのだ。行く先は「こころ」に尋ねればいい、というわけである。

オレキシン作動性ニューロンの制御が重要

オレキシンが脳内で大量に産生されるように遺伝子を操作したマウスを作成してみると、どうなるだろうか。強力な覚醒物質がつねに脳内にあふれていたら、決して眠らない動物ができるのだろうか。私たちは実際にこうした実験をしてみたが、決してそのようなことにはならなかった。ニューロンは、興奮性の因子、あるいは抑制性の因子が慢性的に増えたとしても、一時的に活動が上がったり下がったりはするが、やがてもとの活動を取り戻していくものなのである。オレキシンが脳の中に大量に産生されたとしても、モノアミン作動性ニューロンの活動は一時的には上がるが、それに対応してGABAという抑制性の神経伝達物質をつくるニューロンによる抑制性の入力が増えるため、やがてもとの発火頻度に戻るようになっているのだ。 とはいえ、このマウスか完全に疋常な状態に戻るわけではない。オレキシンがつねに過剰に存在する状態では、睡眠中枢のニューロンがGABAを使ってモノアミン系を抑制しようとしても効き目が悪くなり、マウスは睡眠をうまく維持することができない。つまり重度の不眠症におちいってしまうことになる。 このように、睡眠中にはきちんとオレキシン作動性ニューロンの活動を抑制する機能が必要なのだ。つまりオレキシンが存在しているだけではなく、オレキシン作動性ニューロンが適切なタイミングで刺激されたり、抑制されたり、という制御がなくなってしまうと、睡眠/覚醒の制御系はうまく働かなくなってしまうということになる。 オレキシン作動性ニューロンは、このように生体の内外の環境に応じて適切な覚醒を維持し、行動を支える機能をもっている。情動や全身の栄養状態、体内時計などの情報を統合して、それに対応するために適した覚醒状態を保つ役割をはたしているわけだ(図5‐3)。感情が高ぶるような場面では、そのシチュエーションに対応するために覚醒を維持し、空腹であれば摂食行動を支えるために覚醒を維持する。逆に、エネルギーが十分で、危険もない状態であれば活動を休み、その結果として睡眠がおとずれるのである。

また、オレキシンは不安障害などの病的状態や不眠症などにも関与していると思われ、前述したように現在、オレキシン系に作用する薬物(桔抗薬や刺激薬)は不眠症の治療薬としてすでに臨床的に使用されているほか、過剰な覚醒をともなう精神疾患、つまり、不安神経症やパニック障害、心的外傷後ストレス障害(PTSD)などの治療にも役立てることかできる可能性があると考えられている。

摂食行動と覚醒を結ぶオレキシン

すでにお話ししたとおり、オレキシン作動性ニューロンは視床下部外側野という部分に存在する。この部分は従来、「摂食中枢」であると考えられていた。 視床下部には、食欲に関与する中枢が2つあるとされてきた(図5‐4)。腹内側核にある「満腹中枢」と、外側野の「摂食中枢」である。60年以上も前に実験的に示されていることだが、腹内側核を破壊すれば動物は過食と肥満を示すようになり、逆に外側野を破壊すると食欲を失い、ひどい場合には餓死してしまう。一方、腹内側核を電気的に刺激すると食欲は抑制され、外側野を刺激すると摂食行動がみられる。これらのことから、摂食行動はこれら2つの領域の相反する作用によって制御されると考えられてきた(現在では、弓状核や背内側核の役割も重要であることがわかっている)。

九州大学名誉教授の大村裕博士は1960年代の金沢大学医学部に教授として在籍していたときに、摂食中枢である視床下部外側野に、細胞外のグルコース濃度が高くなると、発火頻度が低下するニューロンが存在することを発見した。このニューロンは「グルコース感受性ニューロン」とよばれ、食欲の制御に重要な役割をはたしていると考えられた。 オレキシンが存在したのは、まさにこの摂食中枢にビタリと一致する領域だった。そこで当初は、私たちもオレキシンと食欲との関連に着目して研究を進めた。そして実際にオレキシンを動物の脳内に投与すると、摂食量が明確に上がったのだ。 しかし、まもなくして、オレキシンは覚醒に関りする物質であることが明らかになったわけである。これは何を意味するのだろうか? やがて私たちは、その鍵を見つけることになった。オレキシン作動性ニューロンの性質を調べていると、食欲のコントロールに関与する物質によって、明確にその活動を変化させることが明らかになったのだ。 それらの物質に含まれるのは、レプチンやグレリンというホルモンだ。レプチンは全身の脂肪細胞から分泌されて視床下部の弓状核という部分に働き、食欲を抑制する。一方、グレリンは胃から分泌されて食欲を亢進させる。オレキシン作動性ニューロンは、レプチンによって抑制され、グレリンによって興奮することが明らかになった。つまり、食欲の制御システムとも明確な関連をもっていたのだ。 このことからオレキシン作動性ニューロンは、栄養状態に応じた摂食行動を維持するために、覚醒を制御する機能をもっていることが類推された。 また、すでにお話ししたとおり、オレキシン作動性ニューロンは血糖値が高い状態では抑制され、血糖値が下がると発火頻度が増えることがわかってきた。これは前述のグルコース感受性ニューロンの性質そのものである。 お昼すぎ、食事をしたあとに眠くなる人は多い。これはどうしてだろうか。俗に「消化のために胃腸に血が集まるから、脳に血が行かなくなって眠くなるんだよ」などといわれるが、そうではない。実は脳は全身でもっとも血液が必要な臓器であり、脳への血流はつねに、できるかぎり確保されるように調節されている。たとえば人出血があった場合も、消化管や筋肉、皮膚などの血流を少なくして脳に集める機能がある。ましてや消化のために脳の雌滝を犠牲にすることなどありえないのだ。 では、どうして眠くなるのだろうか。理由の1つは、概日リズムをつかさどる視交叉上核からの出力の口内変動にある。昼すぎには、覚醒させる方向への出力か一時的に低下すると考えられているのだ。 しかし、それだけでは食後の胆気は説明できない。満腹になると血糖値が若干上がり、空腹になると血糖値は下がることが知られているが、この変動は脳脊髄液中のグルコース濃度に反映される。そして、この変動は、オレキシン作動性ニューロンの発火頻度を大きく変化させるに十分な幅をもっている。血糖値が下がるとオレキシン作動性ニューロンの発火頻度は上がり、血糖値が上がるとオレキシン作動性ニューロンの活動は低下する。このことか、食後の眠気に関与しているのかもしれない。 私たちはオレキシン作動性ニューロンを遺伝子操作によって破壊したマウスを用いて、栄養状態とマウスの覚醒レベルについて調べてみた。通常のマウスは絶食させると、しぱらくの間、活前景が増える。ふだん眠っているはずの昼間にも、睡眠を犠牲にして動きまわる。つまり、餌を探しているのだ。この変化はオレキシン作動性ニューロンを破壊したマウスではみられない。つまり、空腹のときに目が冴えて、餌を探す行動を支えているのはオレキシンの働きであることか示されたことになる。 空腹時には、血糖値が下がり、身体が痩せてきてレプチンが低下してくる。すると、オレキシン作勤仕ニューロンの活動は完遂する。そしてモノアミン作動性ニューロンに働きかけ、覚醒レベルを上昇させ、注意力を向上させ、交感神経も興奮させ、全身をいわば「臨戦態勢」に整えていく。野生の動物にとって、餌をとることは戦いなのだ。 ハングリーなときに、心身の機能を目標に向けた行動をとるために変換する–オレキシンは「ハングリー精神を担う物質」という言い方をしてもよいかもしれない。

コラム10
大脳辺縁系②扁桃体

多くのヒトが、子猫を見ればかわいいと感じ、花を見れば美しいと感じ、美しい景色を見れば心を動かされる。それはなぜだろうか。 日々なんとなく感じているどんな感覚にも、好きな感覚と嫌いな感覚がある。いやな臭いといい香り。美しい風景と汚いもの。心地よい楽器の音色と黒板に爪を立てて鳴らした音。快適な肌ざわりと不快な肌ざわり……。五感には大きく分けて好きな感覚と嫌いな(嫌悪感を生じる)感覚があり、その判別をしているのが大脳辺縁系であり、なかでも扁桃体という部分がとくに重要な役割をはたしている。 感覚は、大脳皮質で処理されるとともに、並列に扁桃体にも伝えられ、それらの感覚を「好き」か「嫌い」か、判断するのだ。単なる知覚に、生物特有の意味合いを与えている、ともいえる。 また、感情は交感神経系の興奮と覚醒レベルの上昇をともなう。これは扁桃体から視床下部や脳幹に出力が与えられることにより、結果として自律神経系や内分泌系の働きに変化が引き起こされるためである。 また扁桃体は、情動記憶にも関連している。情動記憶とは、感覚系からの情報を特定の情動と結びつける記憶である。好きでも嫌いでもなかったものが好きになったり、嫌いだったものが好きになったり、好きだったものが嫌いになったりすることがある。「パプロフの犬」の話をみなさんもご存じだろう。1902年に生理学者パブロフは唾液が口の外に出るよう手術したイヌで唾涙腺を研究中、飼育係の足音で犬が唾液を分泌しているのを発見した。これにヒントを得て、ベルを鳴らしてから餌を与えることを繰り返した結果、イヌはベルを鳴らしただけでよだれを出すようになったというものだ。この場合、足音やベルの音は、イヌにとってもともとは価値のないもの、つまり好きでも嫌いでもないものだったわけだが、餌を一緒に与えることによって、それらが「好きな」音に変化したことになる。扁桃体には、味覚も聴覚も情報として入力されている。そして好きな味と無価値な音が統合されることによって、本来は無価値だった音が好きな音に変わるわけだ。 逆もある。戦地から戻った兵士が、ヘリコプターの音を聞いただけで心臓がドキドキと高鳴り、顔面蒼白になって恐怖のあまり立っていられなくなるという体験をすることがある。ヘリコプターそのものは恐怖の対象ではないのだが、恐怖を体験したときにヘリコプターの音を聞いたため、その音に恐怖を感じるようになったのである。
日常生活でこうしたメカニズムはつねに働いている。これは本来、生物が自然界で生存確率を高めるためのメカニズムだが、こうした「こころ」の動きとなって日々の生活を彩る場合もあるし、心に陰を落とすこともあるわけだ。

コラム11
大脳辺縁系③海馬

海馬は側頭葉の内側に存在する構造である。「海馬」という言葉は「タツノオトシゴ」という意味だが、もともとはギリシヤ神話に出てくる、前半分は馬の姿で前脚に水かきがついていて、後ろの半分が魚の尾になっている架空の動物のことである。海神ポセイドンの子トリトンは、4頭の海馬にひかせた馬車に乗っていることになっている。 さて、大脳辺縁系の中にある海馬を見ると、たしかにタツノオトシゴのような形をしている。この部分は「記憶」に深く関わっているとされている。成人では小指ほどの大きさの海馬が記憶に関わっていることが認識されたのは、以下のようなことがあったからだ。 いまから60年以上前のこと、マンチェスター出身のH・Mさんは子供のころから難治性のてんかん発作に悩まされていた。彼はペンシル八二ア州ハートフォードの病院を受診した。主治医であったスコヴィル医師は、てんかん発作の焦点になっている側頭葉の内側部にある海馬を、両側とも切除する手術をした。その後、H・Mさんのてんかん発作はかなり改善され、薬で十分にコントロールできるようになった。しかし、その代償として非常に重大な問題が起こってしまったのだ。それは「ものが覚えられない」ことだった。たとえば、5分前にあった出来事が思い出せない。5分前に会った人も、何をしていたか、何を食べたかなども、まったく思い出せなくなってしまったのだ。 スコヴィル医師は心理学者のミルナーとともに、1957年、H・Mさんの症例を論文として報告した。彼は手術後、50年以上にわたって経過をフオローし、海馬の機能の解明に重要な役割をはたした。 術後、H・Mさんは医師の名前も、自分が病院に入ることになった経緯もまったく思い出せなくなった。さらに手術前の数年間の記憶にも問題が生じてきた。しかし、それ以前の記憶は完璧で、アメリカ合衆国の歴代大統領の名前も思い出せたし、自分が住んでいた家の住所や電話番号もすらすらということができた。知能テストでも平均よりむしろよい成績を記録した。しかし、テストをした10分後には、知能テストをしたという記憶さえ完全に失っているのだ。 海馬という言葉をご存じの人のなかには、海馬とはハードディスクのように記憶のすべてを受け持っている部位という勘違いもあるようだ。しかし、H・Mさんの例をみてもわかるように実際は記憶にはいろいろな側面があり、海馬は記憶装置の一部を構成していると考えたはうが正しい。 たとえば、記憶には短期記憶と長期記憶がある。いま、リアルタイムで何かを考えている場合にも、記憶は必要なのだ。ちょうどパソコンもRAMの上で動いているのと同じで、「きょうは晴れです」という言葉を聴いて理解できるのは「きょうは」という言葉を記憶しておき、あとで「晴れです」を間いたときに結びつけて考えることができるからである。このような記憶を短期記憶という。短期記憶とは単に時間的に非常に短い間だけ覚えているという意味だが、思考をするうえでは非常に重要なのだ。こうした記憶は「作業記憶(ワーキングメモリー)」とよばれる機能とはぼ同じである。そして、作業記憶の機能は海馬ではなく、前頭葉にある。そのため、H・Mさんも知能テストやクロスワードパズルは普通の人と同様にできるのだ。「この瞬間以外はすべて記憶だ」という言葉があるが、実は「この瞬間」ですら記憶なのである。 一方、本来の意味での記憶ともいえる長期記憶は、大脳皮質のいろいろな部分に分散して蓄えられると考えられている。それらを前頭葉に引き出してきて使うわけである。 では、海馬は何をしているのだろう? 海馬は、いろいろな経験や感覚を長期記憶として蓄えられるかたちに変換している、といってよいだろう。そして数年間くらいの間に、大脳皮質のはうにメモリーを移していくのである。

人はどこまで睡眠を操れるか

睡眠と覚醒に影響を与える物質とは

さきに、睡眠不足に抗う手段はないと述べた。しかし、なんとかして人工的な手段を用いて、寝ないですむ方法はないものだろうか?あるいは、眠れずに苦しむヒトを治療する手段はないのだろうか? このページでは、睡眠と覚醒を制御する脳のメカニズムをみてきた。そこには、さまざまな神経伝達物言が介在していることがわかっていただけたと思う。したがって、このメカニズムや、神経伝達物質に影響を与える物質は、睡眠と覚醒にも大きな影響を与えることになる。しかも、モノアミン作動性システムやコリン作動性システムに影響を与える物質は非常に多いのである。 身近なところでは、風邪薬を飲むと眠くなる人は多いと思う。風邪薬の注意書きに「飲んだときには運転をしないように」と記載されていることからも、これは一般的によくみられる現象であることがわかる。眠くなる理由は、風邪薬には抗ヒスタミン薬といって、モノアミン作動性システムの一部を構成するヒスタミンの作用を阻害する薬物か含まれていることにあるのだ。 また近年、抗うつ薬としてよく用いられるSSRIという薬物は、セロトニン(これもモノアミンの1つ)の働きを高める作用がある。そのため、やはり副作用として睡眠に影響か出てくる場合がある。 これらはあくまで服用の本来の目的ではない副作用によるものだが、逆に考えれば、薬物などを使って積極的に睡眠をコントロールする方法もありうるということだろう。 では、どんな物言が睡眠に影響を与えるのかをみていこう。

覚醒剤が恐ろしいわけ

ヒトの睡眠を研究するうえで有利な点は、睡眠に間作するメカニズムが進化論的にかなり古いために、哺乳類における睡眠/覚醒の制御メカニズムが基本的な部分はかなり保存されているということだ。睡眠の習慣は動物種によって大変な差があるのだが、実はその根底にある、睡眠/覚醒のスイッチのメカニズムは共通しているようなのだ。そのため、古くから多くの動物実験が行われ、ヒトの睡眠/覚醒の制御メカニズムにも共通するさまざまなことが明らかにされてきた。 とくに近年は遺伝子を操作したマウスを用いる研究が多いが、マウスでの知見は十分にヒトヘ応用できるものである。これが感情や高次機能の研究になると、こうはいかない。種間の差がきわめて大きいため、ほかの動物種で得られた知見がそのままヒトに当てはまるとは限らないのだ。その解釈には慎重な科学的考察が必要となる。 動物を使った睡眠研究の常套手段として、検出系には脳波と筋電図を用いる。この2つで睡眠/覚醒状態は把握できる。これに動物の動きや行動をモニターするシステムを組み合わせれば完璧だ。そして、睡眠を操作するために脳の局所を電気で剌激したり、さまざまな薬物を投与して睡眠に対する影響を調べたりしているのだ。後述のように最近では光でニューロンを操作する技術もよく使われる。 まずノンレム睡眠を誘導する物質については、第3章でお話ししたように、断眠したイヌの脳脊髄液をほかのイヌに投与すると眠気を誘発することから、睡眠物質の存在がクローズアップされた。プロスタグランジンD2やアデノシンなどが、脳内に投与すると睡眠を誘発する物質の例である。 次に、レム睡眠に関与する物質については、ジュベらは、1960年代にアトロピンというアセチルコリンの作用を阻害する薬物をネコに投与すると、レム睡眠が抑制されることから、アセチルコリンとレム睡眠か密接に関わっていることを見いだした。さらに、アセチルコリンを脳幹の橋のある部分に局所的に投与すると、非常に長いレム睡眠が誘導できることを示した。 それでは、覚醒を引き出す物質には何かあるのだろうか。「覚醒剤」には文字通り、覚醒を亢進させる作用かある。覚醒剤の作刑戮序は主に、モノアミン系に影響を与えることである。神経終末で分泌されたモノアミンは、モノアミントランスポーター分子によって神経終末に再取り込みされるので、シナプス間隙にたまることなく、濃度は低下する。しかし、このモノアミントランスポーターを阻害してしまうと、モノアミンがシナプス間隙にたまり、強く作用することになる。このような働きをする物質こそが、コカインやアンフエタミンなどの覚醒剤なのである。 モノアミンの一掃であるドーパミンは「報酬」に関係している。覚醒剤の作用でドーパミンが増加すると、動物は増加の原因になった行動を強迫的に繰り返すようになる。つまり、覚醒剤を打つという行為じたいを繰り返すことになってしまう。これが覚醒剤中毒だ。しかも、こうなると脳のシステムに異常をきたし、覚醒剤以外では喜びを感じられなくなってしまう。つまりコカインやアンフエタミンなどは、脳の報酬系に直接影響を与えてしまう恐ろしい物質なのである。 一方で、覚醒剤によるモノアミントランスポーターの阻害は、シナプスにおけるノルアドレナリンやセロトニンの濃度も高くする。これらは覚醒物質であるから、当然、覚醒が亢進する。 また、オレキシンもやはり覚醒に関与する物質である。動物の脳内にオレキシンを役々すると、強力に覚醒が誘導される(オレキシンは末梢に投与しても脳内に移行しないので、脳内に直接投与する必要がある)。マウスは本来、連続して覚醒している時間はせいぜい2時間程度だが、オレキシンを脳内に投与すると4時間にわたって覚醒か維持される。これはオレキシンがモノアミン作動性ニューロンを強力にあと押しして、覚醒をつくりだしていることによる。 このように、実はわずか数種類の物質で、睡眠と覚醒をあやつることは可能なのである。それでは、睡眠障害を治療することも容易にできるのだろうか。ところが、残念ながらいまのところそう簡単にはいかないのだ。

不眠症の人に朗報!? 新時代の睡眠薬

このページの最初の方で「眠りにまさる癒しはない」と言った。病に倒れたときには眠りによって身体の機能を回復するのが一番である。身体のほうでも、それを利川するための戦略を駆使している。感染症などで身体に炎症が起こると、免疫を担当する細胞からサイトカインとよばれる物質が分泌される。この物質は視床下部に働くことにより、ノンレム睡眠を誘発する作用かある。 そして、「こころ」を病んでいるときにも眠りは最高の薬になる。睡眠中、とくにレム睡眠中はモノアミン作動性システムがオフになる。モノアミン系の神経伝達物質は長く作用していると受容体の感度が低下してしまうことが知られている。それを防ぐために睡眠でときどき、モノアミン作動性ニューロンを停止させているのだ、という説もある。 また、セロトニンなどのモノアミンは「気分」とも大きく関係している。うつや不安性障害には前述したSSRI(シナプス間隙のセロトニンをふやす薬)が治療薬になる。つまり、モノアミン系の作用が弱まるとうつや不安住障害を引き起こしかねないということだ。とすれば睡眠には、モノアミン作動性ニューロンを一時的にストップさせることで、モノアミン類の感度を上げるという機能をもっている可能性もある。眠ると、不安だった気分がすっきりすることがあるのはこのためかもしれない。眠りは、あたかも、コンピューターが不調になったときに「再起動」するかのように、脳の機能を取り戻す作用があるのだ。 だから、不眠症の人にとって、「眠れない」というのは深刻な問題になりうる。「眠らなければならない」というプレッシャーがかかると、ますます眠れなくなる。そこで、薬物による治療が必要になることかある。不眠症の治療に用いられるのは、睡眠導入薬である。 これまで、睡眠を導入するために用いられてきたのは、古くはバルビツール系の、麻酔薬に近い薬物、そして最近ではベンゾジアゼピン系の薬物である。ベンゾジアゼピン系の薬物はGABAの受容体の1つ、GABA‐A受容体に作用して、その作用を強める働きがある。この受容体は脳内に広く分布しているので、ベンゾジアゼピン系の薬物を投与すると脳の活動全体を抑え込むことになり、その結果、睡眠が誘発されるのである。非ペンゾジアゼピン系とよばれる薬物も広く使われているが、これは、作用するGABA‐A受容体のサブタイプに関して選択性が高い薬物ではあるものの、その作用機序に関してはベンゾジアゼピン系とほぼ同様と考えてよい。 しかし、GABAA受容体の機能を脳内で広汎に高めることは、生理的な睡眠のメカニズムとはかなり異なっている。すでにご承知のようにモノアミン作動性システムの作用が弱まることが正常な睡眠のきっかけであるが、こうした睡眠薬は、モノアミン作動性システムを抑制するだけでなく、それより上位の大脳皮質にも大きな影響をりえる。したがって、引き起こされる睡眠は正常な睡眠とはかなり異質なものになってしまうのである。 ベンゾジアゼピン系の薬物で誘発された睡眠は、たとえば脳波のうえでも正常な睡眠と大きく異なる。また、これらの薬物を用いると、認知機能や運動機能に影響が出てしまうという問題もある。小脳は運動系の制御に重要な役割をはたしていて、GABAが重要な神経伝達物質として働いている。したがってGABA系に作用する薬物は、運動機能に強い影響を与えてしまうのだ。また、別の問題点として、アルコールとの相互作用がある。アルコールもやはりGABA系のニューロンに強い影響をもたらすので、アルコールとともにこれらの薬物が投与されると、認知機能や記憶、運動機能により強い影響が出てしまう。酔った人が思考も記憶もままならず、下無足で歩くことを考えればわかるだろう。不眠症の人はアルコールを摂って眠ろうとする習慣をもっている場合も多いので、これは深刻な問題になりうる。 しかし、オレキシンの発見により、まったく作用機序の異なる画期的な睡眠導入薬の開発が可能になった。オレキシンは覚醒を維持する物質であり、その作用はモノアミン作動性ニューロンに作用することで引き起こされる。ならばオレキシンの作用を薬物で遮断することができれば、生理的な睡眠をもたらせることが期待できるわけだ(図6‐1)。

いま実際に、そのような薬物(オレキシン受容体拮抗薬)が開発され、2014年から実際に、臨床の場で使用されるようになっている。この薬物は非常に生理的な睡眠に近い睡眠が誘導できることが確かめられている。 オレキシンの作用は覚醒を維持することにあるが、この機能が亢進してしまったとき、不眠症が引き起こされる。睡眠に落ちる前に、オレキシンを産生するニューロンの働きは低下しているべきなのに、ストレスや不安がこれらのニューロンを興奮させてしまい、オレキシンの分泌が過剰になってしまうことが不眠症の原因になっていると考えられるのだ。そこで、この過剰なオレキシンをブロックすることにより睡眠を誘導できるのではないかという考え方から、効果か期待されているのがオレキシン受容体拮抗薬である。 すでに述べたように、オレキシン受容体拮抗薬はすでに実用化され、不眠症治療薬として使用されるようになっている。これも先に述べたように従来、ほとんどの不眠症治療薬はGABAの作用を強めるベンゾジアゼピン系であったが、覚醒に特異的に作用するオレキシン受容体拮抗薬の登場により、不眠症の薬物治療は大きな転換点を迎えつつある。

寝ないですむ薬はできるか

ここからは、これまでの話とは逆に、人為的に覚醒を操作しようというお話である。米国防総省の国防高等研究計画庁から資金提供を受けた研究チームが、オレキシンAを鼻内噴霧すると、睡眠不足のサルを覚醒させる効果があるという報告をした。オレキシンAには目立った副作用もなく、新しい眠気覚ましとして期待できるかもしれないというのだ。眠気に悩まされる現代人にとって、これは夢のような話だ。 報告は、オレキシンAを含む鼻内噴霧薬を使うと、睡眠不足のサルが認知能カテストにおいて、睡眠の足りているサルと同程度の結果を記録したという研究成果を紹介したものだ。30〜36時間断眠したサルたちを2つのグループに分け、一方にはオレキシンA、もう一方には生理食塩水を鼻腔内に噴霧してから認知能力テストを受けさせたところ、オレキシンAを投与されたサルは、睡眠の足りているサルとほぼ同じスコアを記録したのに対し、生理食塩水を投与された対照群のスコアは大幅に劣っていた。その際、PET(陽電子放射断層撮影)でも脳が実際に「覚醒」していることが確認されたという。また、オレキシンAは、眠気を感じているサルだけに効果を発揮し、覚醒しているサルには影響しないという。 過去何十年もの間、さまざまな中枢興奮薬、つまり覚醒剤が「眠気覚まし」として使われてきたが、その多くは習慣性の問題があり、副作用もある。このニュースで「寝ないですむならすごい!」と思った人もたくさんいたようで、インターネットのニュース欄には「睡眠の代用になる薬物!」などという誇張した題名をつけたものもあった。 しかし、繰り返し述べているように、睡眠は心身の健康と機能の維持に不可欠なものであり、長時間眠らずにいることか身体に与える影響は、慎重に考える必要がある。 この研究もそうだが、実は「体内時計」や「睡眠医学」の研究には、NASAや米国防総省が大きな出資をしているものがかなりある。戦争になれば、軍隊は時差や睡眠不足をものともしない軍人を多数送り出さなければならないからである。睡眠不足は致命的なミスを犯すリスクを大きくする。実際に、湾岸戦争ではいくつか、睡眠不足に起因すると推定されるミスにより米軍は大きな被害を被っている。ミサイルを味方の輸送機に発射してしまった事例では、誤射をしてしまった軍人の、ミスをする以前の作戦従事時間と睡眠時間を専門家が分析し、ミスは起こるべくして起きたと結論している。こうしたことから米国では軍事的な要請もあって、少ない睡眠時間で認知機能を満たすことを可能にする研究が進められているようである。 しかし、実はこの研究には多くの疑問がある。なにより、鼻内に噴霧したオレキシンAがどうして覚醒効果をもたらすのであろうか? オレキシンAが覚醒効果を引き起こすためには、脳内に移行しなくてはならない。オレキシンのようなペプチド(アミノ酸がペプチド結合してできたもの)は、経口投与では消化管で分解されてしまうため、鼻内に投与しようというアイデアではあるが、それにしても血液中には到達できても、脳内に移行するためには血液脳関門を通らなければならない。これは、オレキシンのような大きな物質を脳に迎さないようにするしくみなのだ。「尿崩症」という病気では、バソプレッシンというペプチドを投与することによって顕著な治療効果を得られるが、これは、バソブレッシンが作用するのが血管や腎臓などの末梢臓器であるためである。しかし、脳内に作用しなければならないオレキシンか、どうして鼻内噴霧で効果があるのかは、疑問なのである。オレキシンの受容体は不思議なことに末梢組織にも存在するので、これらの受容体に作用している可能性はあるものの、その作用機序はまったくわからない。というわけで、多くの研究者はこの研究に対して懐疑的である。 そして何より、「寝ないですむ」などということは絶対ないと断言したい。睡眠は長い進化の歴史でも省くことのできなかった、きわめて重要な機能である。たとえオレキシンのようなもので無理矢理に覚醒状態を維持したとしても、やがて脳職能に障害が出るだろう。また、筆者らが検討したところ、オレキシンを持続的に発現させたマウスであっても、結局のところ、やがては眠るようになる。オレキシンにより持続的に刺激されているニューロンも、やがてシナプスの変化によって元の状態に戻るのだ。オレキシンを持続的に投与してモノアミン作動性ニューロンなどを刺激したとしても、やがてこれらのニューロンは元の状態に戻ってしまい、睡眠がおとずれることになるだろう。

マウスで治療効果をあげたオレキシン作動薬

しかし、短期的にオレキシン、あるいはオレキシンと似た物質を使って覚醒をコントロールすることができれば、さまざまなメリットかおることは事実だろう。 生体内の生理活性物質と同じ作用をする薬物を作動薬という。さきほど述べたようにオレキシンそのものはペプチドであるため、飲んでも消化管で分解されてしまう。たとえ注射しても、脳には血液脳関門があるため脳に到達することはできない。そこで、消化管で分解されず、かつ血液中に吸収されやすくて血液脳関門も通るような物質で、しかもオレキシン受容体に結合して活性化することができるような化合物が開発できれば、オレキシンの作用を薬で増強することか可能になってくる。不眠症治療薬のオレキシン受容体桔抗薬に比べて開発は難しいが、現在の創薬技術をもってすれば、不可能なことではない。実際に近年、筑波大学のグループにより、覚醒に関わるオレキシン2受容体の作動薬(受容体に結合して活性化する薬物)が開発され、ナルコレプシーマウスに投与することによって納涼効果が得られることも示されている。 もちろん、きびしい臨床治験などを乗り越えて治療薬として実用化されるには、さらに10年単位の時間が必要になるだろうが、こうしたオレキシン作動薬が開発されれば、当然、ナルコレプシーの根本治療が可能になる。それだけではなく、日中の眠気・疲労をともなう種々の睡眠障害(不眠症、時差ぼけ、シフトワークにともなう眠気、眠気をともなううつ状態など)の改善に役立つ可能性が高い。眠気のためにト分な認知能力を発揮できないときも、オレキシン作助祭を使用すれば一発で解消できるかもしれない。また、オレキシンはレプチンという抗肥満ホルモンの作用を強めることがわかっているので、もしかしたら、肥満やメタボリックシンドロームの予防・治療にも役立つかもしれないのだ。もちろん、副作用や習慣性などに関して十分な検討が必要ではあるが・・・・・・。

睡眠をあやつる光のスイッチ

これまでにみてきたように、睡眠と覚醒は神経のメカニズムと物質によって起こるモード変換である。そこに人為的な操作をほどこせば、人工的に睡眠と覚醒をコントロールすることか可能だ。そのことはすでに50年以上も前に、モルッチとマグーンや、ジュベがネコを使った実験で証明している。 彼らの実験はネコの脳幹の一部に電極を埋め込んで電気刺激をするというものだったが、現在では、特定のニューロンのみを光で刺激するという方法が技術的に可能になっている。本来はクラミドモナスという単細胞緑藻類がもっている、チャネルロドプシン2という分子がある。この分子は光に応答して、電気活動を起こす性質がある。そこで、このチャネルロドプシン2を特定のニューロンに発現させてやることにより、光によって.電気活動を起こし、そのニューロンを興奮させることができるのだ。 この光操作技術を用いることで、脳内ではさまざまなニューロンが、覚醒や睡眠の制御に関わっていることが示されている。私たちが最近行った実験では、脳の分界条床核とよばれる部位に存在するGABA作動性ニューロンを、レーザー光線を用いて特異的に興奮させると、ノンレム睡眠をしていたマウスが、まるでリモコンでスイッチを入れたかのようにただちに覚醒することが示された(図6‐2)。そのほかにも、大脳基底部や脳幹のさまざまな部位のニューロン群を光操作することにより、覚醒や睡眠が誘導できることが次々と示されている。

これをすぐにヒトに応用することは難しいが、これらの実験の結果は、脳内には覚醒と睡眠をつかさどる経路にあたる要所が複数個所あって、これらをコントロールすることにより、覚醒や睡眠を生みだすことができることを示している。将来は薬物などで、自由に睡眠と覚醒をコントロールできる時代が来るかもしれ
ない。

日常生活でもできる「眠り」の操作

しかし実は、なにも薬物などに頼らなくても、少しのことでも眠りに大きな影響を与えることができる。よい睡眠をとるためには快適で眠りやすい環境を整えることがもちろん大切だが、そうした話は多くの書物ですでに紹介されているので、ここではあまり知られていないポイントについて、メカニズムも含めてお伝えしよう。 まずは、食事である。オレキシン作動性ニューロンは血糖値の影響を受けることは前に説明した。あまりに空腹になると、オレキシン作動性ニューロンの活動が高まり、眠りにくくなってしまう。かといって、寝る前に食べる習慣がついてしまうと、「食餌同期性リズム」(くわしくは次の章で)が発動するようになり、その時間の覚醒レベルが上がってかえって眠れなくなる。そこで、食事は適切な量を、就寝の4〜5時間前くらいに摂るようにすることが、よい眠りをとるためのコツになる。 近年、リラックス効果などをうたって、GABAを含んだ食品か売られている。GABAというアミノ酸か脳内で睡眠にも大きく関わっていることは本書でも述べてきた。そこでGABAを摂るとよく脹れるのではないかと思われる方もあるかもしれない。しかし、GABAを経口で摂取しても、血液脳関門に阻まれ、ほとんど脳内には入らない。脳は必要なもの以外、やたらと中に入れないようにできているのだ。 一方、サプリメントとしてグリシンというアミノ酸も売られている。実際にグリシンを摂ると、睡眠の質が向上するというデータもある。グリシンは一部、脳内にまで入ることができて、実際に作用しているらしい。グリシンには、脊髄の運動神経を抑制することによって筋の緊張を下げる働きがあるほか、視床下部に働いて体温を下げる作用がある。これらによって睡眠が誘導されるのかもしれない。

実は、もともと体温、とくに脳を含めた深部の体温と睡眠には強い関係かある。睡眠に入るとき、深部体温は少し下がった状態になっているのだ。ヒトが眠りにつく前、一時的に手足の温度が上がるが、これは手や足の血管を拡張させて、体温を外に放散させることによって深部体温を下げているのだ。こうして脳の温度が少し下がることによって睡眠が開始するのである。体温調節には視床下部のうち、視索前野が重要な役割をしている。視素面野といえば、「睡眠中枢」として本書でもしばしば登場したが、この部分が体温調節にも唄要な働きをしているのだ。 逆に体温があまり高い状態だと、人肌しにくいこともわかっている。つまり眠る直前にあまり熱いお風呂に入るのは避けたほうかよいかもしねない、ということだ。しかし、手足が冷えていると、血管が収縮してしまい、深部体温の放散が難しくなる。あまり体温を上げず、しかし暖かくして眠ることが大切だ。 そのほか、体内時計をうまくコントロールすることによっても睡眠によい影響を与えることができる。体内時計のある視交叉上核は毎朝、光によってリセットされる。そこで朝はカーテンを開けるなどしてなるべく明るくし、積極的に体内時計をリセットしてあげるとよい。逆に、夜間にあまり明るい光を浴ぴるのは、睡眠にとってはよくないといえるだろう。 眠気を払いたいときは、体温の話を逆に考えて、手足を冷やすとよい。カフェインを含むお茶やコーヒーなども効果かあるが、早く眠気を解消したいときはホットで飲むほうが望ましい。アイスコーヒーなどは、消化管粘膜の血管か冷たさで収縮してしまうため吸収が遅れるからだ。

夢の役割・腹時計など日常の疑問

これまで、睡眠と覚醒を制御する脳のメカニズムについてお話ししてきた。この章では、これまでにふれることができなかった話題を紹介しながら、知識の整理と復習もかねて、私たちの日常で体験する睡眠と覚醒の世界のなかで感じる疑問について、解説していくことにする。ここまでの章では踏み込めなかった部分にもふれるので、よりくわしい知識がほしい方にも役立つと思う。

Q. 何時間寝ればいい?

A. 毎日の睡眠時間には比較的大きな個人差があるが、6・5時間から8・5時間の睡眠をとる人が7割を占める。4時間以下、10時間以上眠るという人もそれぞれ100人に1人はいる。アメリカで行われた調査対象が100万人を超える大規模な調査では、7時間睡眠をとる人がもっとも長命であるとされている。それ以下でもそれ以上でも寿命は短くなるというのだ。 しかし、この調査には疑問点が多い。第、に、人は歳をとるほど必要な睡眠時間が減少していく。したがって、調査対象に長寿の人が多い集団ほど睡眠時間が短くなるのが当然なのだが、この調査ではその点が考慮されていない。また、何らかの慢性疾患を持っている人は、死亡リスクは当然、高いはずだが、それらの人も睡眠時間は長いはずだ。この種の調査はあくまでも睡眠時間と死亡危険率の相関関係を示しただけであり、因果関係については言及できないことに注意しなくてはならない。一方、認知能力を調べた実験では、7時間睡眠と9時間睡眠との比較でさえ、9時間睡眠のほうが認知能力は高かったという結果もある。 偉人の睡眠時間をみてみると、エジソンやナポレオンは短時間睡眠者として知られているが、実は、よく昼寝や居眠りをしていたという説もある。それが正しければ、結局、6時間程度は寝ていたようだ。一方、アインシュタインは10時間以上眠っていたという。

しかし、こうした錯綜する情報から早急な結論を出すのはよくないと思う。ここでは、一般的には7時間前後が多いが、「あなたが翌日、眠気を感じずに、すっきりと過ごせるだけ眠ればよい」というのが適切な答えであろう。睡眠時間の必要性は個人によって大きな差かおるのだ。そして個人が感じる「眠気」は十分に、睡眠不足のバロメーターの役割をはたす。健康な人であれば、眠気は脳が質的な、あるいは量的な不足を訴えていると思っていい。 しかも、睡眠の必要性にはかなりの柔軟性がある。どうしてもいま成し遂げなければならない仕事があれば、人は眠りを犠牲にして働くだろう。そして、そんな状態でもかなりの能力を発揮することか可能である。つまり睡眠には融通が利くのだ。もちろん、こうした無理はあとで埋め合わせる必要がある。長く覚醒が続いたときほど脳内で睡眠負債は増えていく。そのため、次の睡眠はふだんよりも深く長くなるのが通常である。これを睡眠の恒常性という。こうした機構を含めて、眠気を感じないだけ眠ればよい、というのかここでの答えである。「何時間寝なくちや・・」と考えることは、皮肉だが逆に、睡眠に不安を持ち込むことになり、眠りに悪影響を及ぼしかねないので、あまりこだわらないほうがよいだろう。

Q. 目覚ましが鳴る前に目が覚めるのはなぜ?

A. みなさんは、ふと、居眠りをしてしまったとき、すごく長い時間を寝てしまったように感じたのに実は数分しか経っていなかった、あるいは逆に、ほんの少し眠ったつもりなのにすごく長い時間が過ぎていたという経験がないだろうか。 たしかに眠りは、ヒトの時間感覚を麻痺させることがある。しかし、その反面、眠っている間にも脳は確実に「時」を感じているというのも事実である。みなさんは翌日に特別な事情があり、いつもより早く起きなければならないとき、どうするだろう?目覚まし時計をセットして眠るという人が多いと思う。しかし、意外にも目覚ましか鳴る前に目が覚めてしまい、時計を見るとちょうど目覚ましをしかけた時刻の直前だった、という経験はないだろうか。 リューベック大学のボルンらにより、最近、この現象を説明する実験がなされている。起床する時刻をあらかじめ指示されてから眠ると、その時刻の1時間ほど前から血液中に訓育皮質刺激ホルモン(コルチコトロピン)というホルモンが増えて、起床に備えるのである。これは、起床する時間を意識してから眠りにつくことによって、起床時間に向けて身体をコントロールすることが可能であることを示している。起床時間を指示せず、突然サプライズで起こすと、こういう現象はみられない。明日はいつもより早く起きなければならない、という意志は、睡眠中にも脳を支配して、心身をコントロールしているわけだ。

Q. コーヒーを飲むと眠れなくなるのはなぜ?

A コーヒーやお茶には、カフェインという物質が含まれている。このカフェインに覚醒作用があることはよく知られている。そのメカニズムはアデノシンという物言と関係が深い。覚醒時間か良くなればなるほど、アデノシンが脳脊髄液中にたまっていき、眠気を引き起こすと考えられている。それは、アデノシンが視索前野、とくに腹外側祖宗前野(VLPO)に存在する睡眠ニューロンに発現しているアデノシン受容体(脳受容体)に働いて、このニューロンを興奮させるからであると考えられている。 そしてカフェインは、このアデノシンの桔抗薬として働くのである。 アデノシンこそ睡眠物質であり、睡眠負債の本体だと考える人も多いが、これだけでは、睡眠を誘導する現象のすべてを説明することはできない。とくに遺伝子操作で脳受容体を欠損させたマウスでも睡眠に大きな異常はみられなかったことから、アデノシン以外の機構で睡眠を引き起こすシステムかおることがわかっている。 しかし、人阪バイオサイエンス研究所(当時)の裏出良将博士らのグループの研究によると、脳受容体欠損マウスでは、カフェインによる覚醒作用はなくなっていたことがわかった。このことから、カフェインが覚醒を引き起こすのは、アデノシンによる睡眠ニューロンヘの作用をブロックしているためであると考えられている。そして、このことは同時に、アデノシンによって睡眠が誘導されるシステムは実際に存在し、働いていることを示唆する。なぜならばアデノシンをブロックするカフェインによって、覚醒作用が認められるからである。

Q. 時差ぼけが起こるのはなぜ?
A. 地球上のすべての生物は、地球の自転の周期、つまり24時間を計るための体内時計をもっている。
この体内時計によって睡眠/覚醒だけでなく、ホルモン分泌、血圧体温調節などの生理活動が制御されている。生物は、時刻によって変化する外部環境にできるだけよく適応するために、遺伝子発現や生理活動を時刻ごとに最適な状態にしようとしているのだ。現在では、生殖細胞をのぞく体内のすべての細胞が体内時計をもっていると考えられている。 そして、それらすべての時計を同調させるマスタークロックとして、視床下部に視交叉上核がある。この時計は1日に1回、先によってリセットされて、全身の細胞がもっている時計に信号を送って同調させていると考えられている。ところが海外に行くと、時差によってこの体内時計と実際の時計にずれか生じてしまうのだ。したがって、身体の内部環境が各時刻に対して適切に働かなくなるので、体調が崩れてしまう。これが時差ぼけの理由である。

しかし、視交叉上核の時計が光によってリセットされるのであれば、海外で日を過ごすうちに時差ぼけはだんだんと改善されるはずである。だが実際には、なかなかそうはならないことが多い。なぜなら、このリセットは1日にせいぜい1・5時間程度しか調整幅がないのだ。したがって、たとえば時差が12時間のところに行けば、最低でも8日間滞在しないかぎり時刻と体内時計の同期はできないことになる。 ただし、実は体内時計をリセットする方法は光だけではない。別の項で述べるように、食事によってもリセットが可能である。この「食餌同期性リズム」を利用して時差ぼけをうまくコントロールする方法がある。食事によって影響されるのは視交叉上核の体内時計そのものではなく、別の脳内時計のようだ。そして食餌同期性リズムは、体内時計よりも優先して身体をコントロールする力がある。そこで、たとえば東京からロサンゼルスに旅をする場合、ロスでの朝食の時間から遡って12〜16時間を絶食し、到着してすぐに朝食を食べると、現地入りしたときからリセットされた「腹時計」がスタートする。もっとも、せっかくの機内食が食べられないのは大問題ではあるが………

Q. 腹時計って本当にあるの?

A. お昼が近づくと食事をしたくなる。夕方になるとまた、何か食べたくなる。実はこれは、時間か経ったからお腹が空いたというだけの理由ではない。毎日決まった時間に食事を摂る人は、その時間が近づくと空腹を感じるようになるのだ。 これはなにもヒトに限ったことではない。マウスやラットは、本来は夜行性だが、昼の短い時間だけ餌を与えるようにすると、食事の時間が近づいた昼間に陸風をやめて活動するようになる。餌を与えられたからではなく、餌がくるはずの時間を予測して行動を開始するのだ。これを食餌予知行動という。この食餌同期性リズムは24時間周期で起こり、食事の時間に合わせて覚醒状態、行動屋、体温がピークを迎える。これは、餌にありつける可能性が高いタイミングに身体職能を高めて、活飴屋を高める機能なのである。 概日リズムは視交叉上核の遺伝子発現が24時間周期で変化することによってつくられるリズムだが、この食餌同期性リズム、いわば「腹時計」は、視交叉上核を失っても残る。つまり、視交叉上核のほかにも、脳の中にリズムをつくりだす機構が存在しているということになる。食事のタイミングは体内時計を上回る影響力をもっているのだ。ハーバード大学のセイバーらは、視床下部の背内側核という部分がこのリズムの生成に関与しているという。しかし、この説には反論も多く、いまも激しい論争がなされている。 実は、オレキシンを欠損したマウスでは、この食餌同期性リズムは生みだされなくなる。このことから、オレキシンは食餌性の「腹時計」による覚醒の維持にも必須であると考えられる。 ただし、オレキシンはリズムをつくりだす機構というよりは、リズムを行動として送り出すために必要な経路である可能性が高い。つまりリズムを行動として表出させるために、オレキシンの覚醒作用が必要というわけだ。いずれにせよ、食事のタイミングによっても覚醒と睡眠は大きな影響を受けるということである。夜食をいつも遅く摂っていると、毎日その時間に覚醒レベルがにがり、「食べないと眠れない」ということになりかねない。

Q. 夢にも役割がある?

A. 夢は不思議であり、神秘的ですらある。だから、太古から人々をひきつけてきた。夢は、何かの霊的なメッセージであり、神の啓示であると考える人もいる。夢に興味をもつ人は多いと思うので、あらためて夢の働きについて別の観点も含めて考えてみたい。 レム睡眠時の夢にはさまざまなストーリーが出てくる(浅いノンレム睡眠時にも夢は見ているが、複雑なストーリーはともなわないことが多い)。心理学の世界では、夢はなんらかの願望が潜在意識の中から現れたものであり、夢を分析することによって、その人の潜在的欲望や心理傾向が明らかになると考える人もいる。これは人の欲望にとくに着目したフロイトの考え方に影響を受けた発想だといえる。 フロイトは夢を「抑圧された欲望が表現されたもの」と考えた。夢の内容が多くの場合、非常に強い情脂性をもつ(感情を揺さぶられる)ものであるため、そう考えたのだろう。起きているときに満たされない欲求が顕在化したものが夢であり、夢を見ることによって、その欲求が解放されて精神の均衡を保つことができる、というのである。 しかし、神経科学者たちはそうは考えていない。また、多くの神経科学者は夢のストーリーや心理的な解釈には興味を示さない。興味の対象は、どうして夢が引き起こされるか、その脳内のメカニズムにこそある。それはレム睡眠のときの生理現象を理解するのに必要だからだ。

1977年、ハーバード大学のホブソンとマッカーリーは、夢のメカニズムを「賦活・合成仮説」という考え方で説明した。レム睡眠中は、大脳皮質が覚醒時とは別のメカニズムで賦活されている。感情をつかさどる部分(大脳辺縁系)や視覚を構成する高次視覚野などが賦活されているのだが、そのときに合成されたイメージこそが夢だというものだ。レム睡眠時にはさまざまな事象を理論的なものとしてまとめ上げる前頭前野の機能の一部が低下してしまっているため、夢の中で奇妙なことが起こっても不思議とは思わないのだ。 しかし、それにしてもなぜ私たちは夢を見るのだろうか。夢じたいに、何か機能はあるのだろうか。「夢は大脳皮質の活動にともなう付随現象である」という考え方もある。つまり、睡眠の中でときどきなんらかの目的のために脳が覚醒時と同じくらい強く活動する必要かおり、そのときの情報ノイズをとらえたのが夢であるというものだ。ようするに、夢にはなんの役割もないという考え方だ。 しかし、それではあまりにもJyがない。それに、睡眠中に脳をわざわざ活動させるのはなぜなのか?という疑問も残る。 みなさんのなかには、以前に夢の中で体験したことが、もう一度夢の中で再現されるという経験をした方も多いと思う。それも体験した直後だけではなく、非常に昔のことが夢に出てきたりする。このことは、夢か「記憶」と関わっていることを示唆している。また、夢の特徴として、非常に強い情動をともなっていることは何度かお話しした。これはレム睡眠中に感情をつかさどる大脳辺繰糸が強く活動していることと関係する。夢には、さまざまな連想として、記憶の断片が登場する。レム睡眠のとき、情動システムである大脳辺経糸が賦活しているのはブ記憶の「重要度」を情動によって重みづけしているのかもしれない。 大脳辺経系は情動のシステムであるとともに、記憶とも関係が深い。すごく怖かったことやうれしかったこと、あるいはショックだったことなどは、強い記憶として残っているだろう。このような事項は「覚えておかなければならない」こととして、大脳辺縁系によりタグがつけられ、記憶に深く刻まれる。夢でも、そうした記憶の重みづけが行われているのではないだろうか。 また、ホブソンらは、夢の中では自分が「運動をしている」ことが多いと指摘している。これはレム睡眠中に脳の運動機能をつかさどる部分が活動することが関わっていて、運動記憶(手続き記憶)の強化につながっている可能性かあるとした。 しかし、考えてみれば、これらは夢の役割というより、レム睡眠の役割ということにならないだろうか。レム睡眠の直後にたまたま目覚めたときに、夢は記憶として残る。ほとんどの夢は見ていることすら気がつかないのだ。場合によってはまったく夢を見ない人もいるが、そうした人もまったく健康な日常を送っているのである。もし夢を「レム睡眠時の脳の活動が意識にのぼったもの」にすぎないとすれば、夢そのものに役割はなく、役割をもっているのはレム睡眠である、ということになる。レム睡眠の記憶が残らないのは前頭前野の機能が落ちているからだが、わざわざそういう機構があるということは、ノイズを意識に上らせないためである、とすら考えられる。 やはりJyのない話になっていきそうな気もするが、しかし、あえて夢の効用はといえば、こんなことは考えられる。 前頭葉機能の一部の低下が、夢の中で奇妙なストーリーをつくりだすことは述べたが、これがひらめきや発見につながることが少なからずあるのだ。前頭前野は理論性を管理しているため、ときには柔軟で飛躍した思考を妨げてしまうことがある。19世紀ドイツの化学者ケクレは夢の中でベンゼン環の構造をひらめいたというし、18世紀に活躍したイタリアの作曲家ジュゼッペ・タルティーニは自分のベッドの足元で悪魔かヴァイオリンを弾いていた夢にインスピレーションを得て「悪魔のトリル」という名曲を書いたといわれている。つまり、夢の中でタルティーニが作曲したわけである。しかも彼は、この名曲も夢の中で悪魔が奏でた曲には遠くおよばない、といって悔やんだという。また、かの有名なダ・ヴィンチは、「夢の中では現実より物事かはるかに鮮明に見える」といったという。 夢は大脳が前頭前野の管理体制から放たれて、自由を満喫するときなのかもしれない。これを夢の本来の
機能とはいえないかもしれないが、両度物的に人類の想像力や創迫力を高めているともいえるのではないだろうか。

コラム12
レーヴィの実験アセチルコリンの発見

本ブログの話題にしばしば登場する、レム睡眠と関係の深いアセチルコリンの発見には、実は夢が大きく関わっていた。 アセチルコリンは自律神経系や運動神経でも伝達物質として働く重要な神経伝達物質である。ドイツの生理学者オットー・レーヴィは、神経と神経の間の伝達が化学物質によって行われていると考えていたが、それを証明する方法を長年模索していた。1923年のある日、彼は夢の中で、ある実験方法を思いつき、目覚めるとすぐに枕元の紙に概要だけを書き込み、また眠った。しかし翌日、詳細が思い出せず、長い一日を過ごした。ところが幸運にも彼は、次の日もまた同じ内容の夢を見た。このとき、彼はすぐに実験室に入って実験に着手した。 カエルの心臓を取り出してリンガー液に浸し、副交感神経である迷走神経を電気で刺激すると、心臓の鼓動は遅くなる。このとき、浸してあるリンガー液を別のカエルの心臓に作用させると、その心臓の鼓動も遅くなった。これはリンガー液の中に何らかの物質が放出されて、それがもう1つの心臓に働いたことを見事に証明していた。これは夢ではない!未明には、レーヴィは自分が歴史に残る大発見をしたことを確信した。彼は、のちにこの物質がアセチルコリンであることを示したテールとともに、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。 これも、夢の中では固定概念を打ち砕く発想が生まれることの{例といえるだろう。もちろんその成功は、彼らが覚醒時に課題に打ち込んで思考を巡らせていたから、夢の中でそれを解決できたのだ。

Q. 予知夢は本当にある?

A. 夢に出てきたことが現実に起こることを「正夢」という。また、夢の内容を分析することによって未来を予言する、夢判断や夢占いなどというものもある。本当に夢は未来を伝える異世界からのメッセージなのだろうか? われわれ神経科学者にそう尋ねても、「そんなことはあるはずない」という夢のない返事しか返ってこないだろう。 それでも、「いや、たしかに夢に見たことが実際に起きた」という人がいるかもしれない。そこで、このような説明ではいかかだろうか。 レム睡眠中に大脳辺縁系が活発に働くことにより、それが夢を感情豊かなものにしていることはすでにお話しした。大脳辺縁系は情動をつくりだすシステムだが、それは環境から入ってくる情報が「自分にとってどれはどの意味があるか」を判断し、記憶の重みづけをするシステムでもあることもさきほど述べた。有益か否か、あるいは危険か否かを判断し、それにともなって喜怒哀楽の感情が発動されるのだ。 何か気にかかっているということは、その事項は当然、自分にとって大きな意味をもっている。それは当然、記憶にも残るし、大脳辺縁系によって強く意味づけをされる。そして、レム睡眠時には大脳辺縁系が働いている。 たとえば、親しい大が服い病気やけがで入院したとする。誰でもその大の安否が気がかりになる。あるいは来週に大切なテストや社内のプレゼンかあるとして、今回は勉強や準備の進行が思わしくなく、うまくやれるかすごく心配だったとする。そんなとき「不安」が大脳辺縁系によってつくられ、その不安は関連する「病気の知人」「テスト」「プレゼン」といった事項と結びついているわけだ。 レム睡眠中に大脳辺縁系が賦活し、恐怖や不安のイメージがつくられ、記憶の断片のつながりである夢に影響を与えているならば、病気の知人に何かあった、あるいはテストで失敗した、プレゼンで恥をかいた……などという夢を見ても何も不思議はない。しかも、その不安が的中したとしても、それは夢でなくても予想可能なことであり、たまたま夢で見たから印象が深くなったのではないだろうか。逆に結果がよいほうに出て、知人が病気から回復したり、テストがうまくいったり、プレゼンがうまくいったりすれば、「あれ
は逆夢だった」と納得して忘れてしまうのではないだろうか。
味気ないかもしれないが、われわれ神経科学者にいわせれば「予知夢」とはそういうものであるといわざるをえない。だが見方を変えれば、われわれがもっている不安をわかりやすい形で印象づけてくれるのが予知夢であるという言い方もできるかもしれない。

コラム13
視覚野とコラム構造

大脳皮質の項でもふれたが、コラム構造がよく研究されている領域に一次視覚野がある。この部分の構造と機能には驚くべきものがある。また、ものごとをばらばらの要素に分解して、処理、記憶するという脳のもつファイルシステムの特性もよく現れているので、少し紹介したい。 みなさんは、眼球がカメラのような構造をしているのはご存じだと思う。では、網膜に映った像はどのように処理されているか、おわかりだろうか?映った像がそのまま脳に投影されると考えている方も多いだろうが、そうではない。 左右の眼球からの入力は「半交叉」という方式で、外側膝状体(視床の一部)を経由し、左右の大脳半球の後頭葉にある視覚野に到達する。このとき、左側の「視野」は右の脳に、右側の「視野」は左の脳に入る。このとき注意すべきなのは、左目からの情報が右に、右目からの情報が左に入るわけではない、ということだ。 右目にも左目にも、それぞれに、右視野と左視野がある。つまり、右網膜の左半分と、左網膜の左半分の情報は両方とも、左の脳の一次視覚野に到達する。それぞれの視野の情報が途中で、脳の左半球と右半球に分かれて入力されるわけだ。これを踏まえて視覚野の構造をお話ししたい。 一次視覚野は視覚情報が最初に処理される脳の領域であり、後頭葉の内側面に存在する。ここに入ってきた情報は、そのまま視覚として脳に投影されるわけではない。視覚情報は、まず眼球のレベルで高度に分解されるのだが、そのあと、この一次視覚野でも、要素別にばらばらに分解されてしまうのだ。要素とは、線分の傾き、色、明るさ、コントラストなどだ。 ここで」次視覚野の驚くべき構造をみてみよう。そこには「コラム構造」が実に整然と並んでいる。まず、右の眼球からの情報を処理するコラムと左の眼球からの情報を処理するコラムが交互に並んでいる。右の視覚野だったら、左右の網膜の右半分からの情報が入ってくることを思い出してはしい。コラムは右目、左目、右目、左目……と、交互にずっと並んでいる。 これをX軸とすると、Y軸上には「方向優位性コラム」の整列が見られる。これは線分のいろいろな傾きに対応するコラムである。 さらに、これらのコラムの整列の中には、チトクローム酸化酵素を多く含んだ「ブロブ」とよばれる斑点状のコラムがある。ブロブの中のニューロンは、色や明るさの違いに反応する。

このように視覚野は、視覚情報をまず、明るさ、線分の傾き、色、どちらの目から入ってきた情報なのか……などさまざまな要素に分解して、別々のコラムで処理しているのである。こうしてデジタル処理されたそれぞれの情報は、高次視覚野(視覚連合野)で再構成される。 こうしてみると、私たちが見ているのは脳がつくりだしたバーチャルリアリティーであるという言い方もできる。「いや、そんなことはない。私が見ているものはたしかにそこにあるI・」と反論する人もいるかもしれない。では、色について考えてみてほしい。色とは、素材がどのような波長の光を反射しやすいか、あるいは逆に吸収しやすいかで決まる。つまり網膜に入ってくる光の波長が色である。これはひとつの物理特性であって、そのような物理特性を脳が「色」として感じて初めて、色になるのである。 われわれの脳が感じないかぎり「色」というものは存在しない。色は脳が割り出したものなのだ。われわれの感覚世界は、たしかに現実に起きているものが材料になってはいるが、それらを脳によってわかりやすく加工した情報を感じているのだということがおわかりいただけただろうか。

Q. 夢遊病はどういうしくみで起こる?

A. 睡眠中に無意識のままに起き上がって徘徊するなどの行動をとることを、俗に「夢遊病」というか、本当は「睡眠時遊行」という名の症状である。好発年齢は3歳から8歳で、思春期までに消失することが多い。まれに成人でみられることもある。なかには料理をしたり、クルマを運転するなど、非常に複雑な行動をとる例すら報告されている。「夢」という字がついていることから、夢遊病は夢と関係があると思われがちだ。夢の中の行動が現れていると思っている人も多い。しかし、実は夢遊病は深いノンレム睡眠(第3段階か第4段階)のときに起こる。前に述べたようにそれらの段階のノンレム睡眠時には、夢はほとんど見ていない。だから夢遊病は夢とは関係ないのである。

ノンレム睡眠時には感覚系が正常に機能していると述べたが、そのため夢遊病の人は徘徊していても、障害物などを避けることができる。徘徊のあと、自分で再び床に戻る場合も多い。しかし、大脳皮質は深いノンレム睡眠の状態であるため、周囲の働きかけには反応せず、完全に覚醒させることは困難である。目覚めたときには徘徊したことをまったく覚えていない。それでもいろいろな行動ができるのは、大脳が部分的に覚醒していることを示している。つまり夢遊病とは、深いノンレム睡眠状態と、一部の脳機能の部分的覚醒状態が混在した状態である。 これは、睡眠/覚醒のスイッチのメカニズムの失調であるとも考えられる。意識がないのに運動するなんて「そんなばかな!」と思われるかもしれない。しかし本質的には、運動に意識は必要ないのだ。覚醒時、運動は前頭前野の統制下におかれている。そして前頭葉が適切な運動パターンを選び出している。むしろ、意識を排除して無駄な運動を制御しているのが前頭前野(と大脳基底核)の役割であるとさえいえる。さらには、前頭前野の支配を離れて運動機能だけが発現することはめずらしくない。みなさんも歩いている最中、脚の動かし方を考えながら歩くことはないだろう。スポーツ選手はときどき「無意識に身体が反応していた」などという。また、格闘技の試合などで、劣勢の選手が意識もうろうとしながら逆転で勝ってしまうこともある。こうしたことを考えると、意識がなくても運動が発現することは理解しやすいだろう。意識が心身のすべてを管理しているというのは間違いである。むしろ意識が管理しているのはごく一部なのだ。 通常、ヒトは運動するときには、前頭前野の補足運動野や運動的野でリハーサルをして、運動パターンを選び出し、それを実行に移している。しかし、運動パターンそのものは一次運動野および大脳基底核や小脳と脳幹を中心としたシステムがもっている。睡眠中に、これらのシステムが前頭前野の支配を離れて機能を発現してもおかしくないのである。ちなみに、こうした運動パターンをブラッシュアップするとともに、前頭葉の介入が少なくてもうまくパターンを選び出せるようになることこそが「運動の上運」であるという言い方かできると思う。 また、運動というとスポーツのような大きな動きを想像しがちだが、言葉を発することなども運動だ。言語中枢(言語野)のうち、発語をつかさどるのは前頭葉のうち運動機能と関係の深い部分にある。つまり「寝言」も夢遊病とかなり近い状態なのである。これは言語機能が前頭前野の管理下を外れて活動している状態だ。「歯ぎしり」も、咀嚼(そしゃく)機能に近い運動パターンが発現しているわけだ。こうした症状をまとめて「睡眠時随伴症」という。 夢遊病に近い症状には「夜警症」というものもある。これは3〜10歳くらいの小児の疾患で、人脈2〜3時間後に突然大きな声を出し、起き上がったり何かにおびえたように泣きわめき、歩き回ったり、走り回ったりするものだ。ほとんどの場合、数分以内におさまり、患者はこのことをまったく覚えていない。この症状も夢遊病と同様に、深いノンレム睡眠期にみられる。おそらくまだ睡眠システムの成熟が進んでいないために、深いノンレム睡眠期になんらかのメカニズムで情動システムである扁桃体が活動して起こるのだと思われる。 一方、似ているがまったく非なる症状として「レム睡眠行動障害」というものがある。この疾患はレム睡眠のメカニズムを考えるうえでも非常に興味深い。 これは中年の男性に比較的多くみられる症状であるレム睡眠時には大脳が活発に活動しているので、身体の暴走を防ぐため、運動系への出力をカットしていることを思いだしていただきたい。レム睡眠時には橋にあるコリン作動性ニューロン(→表3‐1でタイプ②のコリン作動性ニューロン)からの信号が、グリシン作動性ニューロンを介して脊髄の運動神経に抑制性の信号を送っている。そのために、通常ではレム睡眠時には全身の筋肉は弛緩しているのだ。このメカニズムによって、夢の中での行動が実際の身体に反映しないようになっているのである(図7‐6)。

しかし、このメカニズムがうまく働かなくなったらどうなるだろうか?まさにそれがレム睡眠行動障害なのだ。 レム睡眠行動障害では、睡眠中に複雑な行動をとったり、歌を大声で歌ったり、なかには暴力的な行動をとってしまう症例もある。隣で就寝している妻を限ってしまったり、突然飛び起きて、障子を突き破ったりすることもある。実はこのとき、患者さんは喧嘩をしている夢を見ていたり、学生時代にやっていたフットボールの試合に出ている夢を見ていたりするのだ。思いだしてほしい。夢の中では情動に富んだイメージか広がっていて、何者かに追いかけられるなど激しいストーリーが展開されていることが多い。そのなかで自らも激しく動き回っていて、それがこのような行動に現れてしまうのである。 発作のときに脳波をとれば、こうした行動はレム睡眠のときに起こっていることがわかる。前述の夢遊病との大きな違いだ。つまりこの疾患では、夢の中での行動が身体に現れてしまっているのだ。 こうした状態は、動物実験でも再現できる。かつてレム睡眠のメカニズムを調べていたジュベは、ネコの脳幹の橋の一部を破壊したところブ不コはレム睡眠中に立ちあがり、あたりを見まわして獲物を襲うような行動をした。つまり、橋のコリン作動性ニューロンの一部が破壊された結果、大脳から運動神経への出力をカットするメカニズムかうまく働かなくなったのだ。このときネコは、夢の中で獲物を襲おうとしていたのではないだろうか。 同様の現象はモリソンらも報告し、「筋弛緩のないレム睡眠」(REM‐without‐atonia)とよんだ。まさにこれと同じことが起こっているのがレム睡眠行動障害である。この疾患は1986年にシェンクらによって報告された。 いまのところ、ヒトのレム睡眠行動障害の原因は特定されていない。しかし「パーキンソン病」という、脳幹でドーパミンをつくる神経細胞の障害によって運動失・調などを起こす疾患にともなうことが、比較的多いといわれている。ドーパミンの低下が、コリン作動性システムの機能に変調を与えている可能性かある。あるいはパーキンソン病と同様の神経変性が関与しているのかもしれない。実際に、レム睡眠行動障害は、パーキンソン病のほかにも、オリーブ橋小脳萎縮症、レヴィー小体型認知症といった神経変性疾患との関連が知られている。 また、セロトニン系に作用する抗うつ薬のSSRIによってレム睡眠行動障害を引き起こすことがあるという報告もされている。セロトニンやドーパミンなどのモノアミンの変調が本来のレム睡眠の機能に影響を与えてしまっているのだと思われる。

Q. 寝だめはできる?

A. 週末になるといつもより多く寝るという人は多いだろう。だか、これは「寝だめ」をしているというよりは、日々の睡眠不足を補っているとみるほうか適切だろう。 ツー・プロセスモデル(→図3‐9)を思いだしてほしい。覚醒中に、睡眠負債が脳内に蓄積していく。これを返済するのが睡眠である。だか、たまってもいない負債を返済することはできないし、プリペイドカードのようにあらかじめ払っておくこともできない。つまり、寝だめはできないのだ。 逆に、睡眠負債の形になって残った睡眠の不足分を、あとで返済することは可能である。徹夜したり、寝不足だったりした日の翌日には、誰でも時間が許すかぎり長く眠りたい。睡眠が不足すれば、次の睡眠は深くなり、また長くなる。これは多くの哺乳類で起こる現象であり、睡眠の恒常性とよばれる。

しかし「寝だめはできない」という答えだけではあまりにも素っ気ないので、ここでもう少し、睡眠負債と睡眠の恒常性について考えてみよう。 実は、このシンプルな現象のメカニズムはいまだによくわかつていない。脳がどのようにして睡眠の不足や充足を測っているのか、そのメカニズムがわからないのだ。ただ第3章で述べた睡眠物質が、このメカニズムを説明できる可能性をもっている。覚醒時間が良くなればそれだけ睡眠物質か蓄積し、睡眠によるその分解に長い時間が必要になるという考え方である。この睡眠への欲求を睡眠負債、あるいは睡眠圧とよび、睡眠物質の候補として有力なのがアデノシンであることは述べた。アデノシンの蓄積が睡眠を呼び、睡眠中にアデノシンが分解されるというわけである。 いずれにしても、脳の活動によって睡眠負債か増え、それが覚醒シグナルを上回ると睡眠が生じるという考え方が有力とされてきた。つまり「脳全体」の活動の履歴が、睡眠を促す、という考え方だ。具体的には視索前野の睡眠中枢が活性化されて「脳全体」に睡眠を引き起こすと考えられてきた。 しかしその後、アデノシンの受容体(脳受容体)遺伝子を壊したマウスも正常に眠ることがわかり、アデノシンだけでは睡眠負債を説明することかできないことかわかってきた。 また、前述のように近年では、睡眠は「脳全体」ではなく、もっと脳の「局所」でコントロールされているという可能性が議論されている。ヒトの左大脳半球には言語をつかさどる部分が存在する。PETなどの脳画像解析や脳波で調べてみると、この言語野周辺がほかよりも早く深い睡眠に入ることがわかっている。これは、覚醒時に言語をあやつるためにこの領域を多く使ったため、より深い眠りを必要としていると考えられる。マウスやラットを使った実験でも、同様のことが証明されている。ラットのヒゲは感覚器官であり、脳の感覚野の一部に入力して感覚情報として処理されている。そして1本1本のヒゲからの感覚情報が入力する大脳皮質の感覚野の領域は明瞭に分けられている。このようなラットのヒゲのうち特定の1本だけを、繰り返し刺激すると、のちの睡眠時にそのヒゲからの情報を処理する大脳皮質の部分が、ほかの領域よりも深い睡眠に入るのである。 このように睡眠・覚醒の機構は、脳全体に影響を及ぼすだけでなく、局所的な制御もされているのである。もちろん、視索前野にある睡眠中枢によって脳全体に睡眠を促すメカニズムもある。だかそれとともに、脳の各部も自治区のように睡眠を制御しているのである。これがローカル・スリーブである。 最近では、大脳皮質のコラム構造の単位まで、睡眠の制御は細分化できるという説がある。コラムとは大脳皮質の機能単位であり、円柱(英語でコラム)のように並んでいるのでそうよばれる。1つ1つのコラムは数万個のニューロンでできている。そして覚醒時によく使ったコラムほど、深く長い睡眠をとるという。 このような脳の局所でみられる睡眠恒常性のメカニズムは、いまのところ謎である。しかし、脳の局所の神経回路の変化(可塑性)が関与している可能性がある。 たとえばウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニは、覚醒時に大脳皮質が活発に活動することにより、大脳皮質のニューロン間のシナプス強度が全体的に上がることが、睡眠負債と深く関連すると考えている。シナプスはその活動によって大きく伝達効率を変化させる。長期増強というメカニズムもその1つだが、覚醒時に脳を使うことによって、脳内でさまざまな部位のシナプスが強化されているはずだ。それが度を越してしまうと、脳が過活動になってしまう。そこで、休ませる必要が生じてくるというのだ。 シナプスの強さは、そのまま睡眠の深さ、つまり錐体細胞の発火パターンの同期性の強さに相関するという。そして睡眠時には、不必要な(重複した)シナプスが削除され、必要なシナプスが残されることによって、脳内のシナプスの「最適化」が行われ、全体的なシナプス強度が低下するとともに睡眠は浅くなっていくという。つまり、脳全体のシナプス強度の強さこそが、睡眠負債だというわけだ。 この説はローカル・スリーブも説明できる魅力的なものだ。近年、2光子顕微鏡などの技術により、生きたままの動物のシナプスが観察できるようになり、ノンレム睡眠中に過剰なシナプスの削除が行われていることも証明されつつある。 さらに、最近は、脳の老廃物の処理かノンレム睡眠中に行われるということも示されている。第1章で述べた、「グリンパティックシステム」は、ノンレム睡眠中に機能するのだ。覚醒中には各ニューロンは、シナプスのみではなく、その周辺の脳脊髄液に存在する脳内物質の影響を受けて制御されているので、むやみに脳内を洗浄されては機能に支障が生じるだろう。そこで、脳機能が低下したノンレム睡眠中に掃除を行うのだ。店舗などが、開店中に店の掃除を行うのは不都合が多いので、閉店後や体掌中に清掃をするようなものだ。

アデノシンなどの「睡眠物質」の蓄積、そしてシナプス強度の増強や、老廃物の蓄積は、すべて、主に覚醒中に起こり、ノンレム睡眠中に軽減されていくことになる。おそらく睡眠の恒常性をつかさどる「睡眠負債」とは、これらのファクターか総合してつくられるものであろう、というのが現在の考え方である。
ほかには、アストロサイトというダリア細胞(→図3‐5)がアデノシンを産生し、睡眠を促すという説もある。
こうした睡眠恒常性のメカニズムが早期に解明されることが期待される。その解明によって、さまざまな睡眠障害の治療法が開発される可能性があるし、また、睡眠の生理的意義が完全に解明される可能性があるからだ。

Q. 朝型・夜型・短眠の遺伝子がある?

A. 睡眠時間の項でも述べたが、睡眠の習慣には個人差がかなりある。睡眠時間の長短だけでなく、睡眠を開始する時刻や起床する時刻にも大変なバラエティがある。実は、それは生活習慣だけによるものではない。就寝時間や睡眠時間に強い影響を与える遺伝子がいくつか同定されているのだ。 家族性睡眠相前進症候群(FASPS)という疾患が知られている。この疾患の患者は、夜8時以前に就寝し、夜明け前に起きずにはいられない。この疾患では、Per2という遺伝子に変異があることが明らかになっている。この遺伝子にはカゼインキナーゼという酵素によってリン酸化される部分があるのだが、その部分に変異が起こっているためにリン酸化による制御がきかなくなっている。このことによって体内時計のリズムが短縮してしまうため、非常に早く眠くなり、また目が覚めるのだ。逆に睡眠相後退症候群という睡眠障害もあり、これは、睡眠時間および覚醒時間が通常のヒトに比べて非常に遅くなってしまう疾患である。この疾患ではPer3という時計遺伝子の変異が知られている。また、短時間睡眠者の中にはDEC2という体内時計の制御因子をコードする遺伝子に変異があることが報告されている。このほかにも、時計遺伝子関連の遺伝子変異が睡眠の習慣に大きな影響を与えることか報告されている。 近年、ヒトの個体差や個性のもとになっているのは、さまざまな遺伝子にある微妙な差の蓄積であると考えられるようになっている。これを多聖という。とくに、一塩基だけの違いをもつ多型を一塩基多型(SNP)という。ヒトの遺伝子には無数の多型があるとされていて、睡眠に関わる遺伝子も例外ではない。このように睡眠習慣の違いには、遺伝子の多型が関わっている。実際にさまざまな時計遺伝子に、睡眠習慣に関係する多型が見つかりつつある(表7‐1)。あるいは時計遺伝子のほかにも、睡眠習慣に関わる多聖があるかもしれない。

コラム14
多型(ポリモルフィズム)

遺伝的多型とは、同じ生物種の集団のうちに遺伝子型の異なる個体が存在すること、またはその異なる遺伝子・DNA配列のことをいう。たとえば、血液型の遺伝子は典型的な多型である。同じヒトという種の中にA、B、Oの3つの遺伝子があるからである。 ただし血液型の場合は、遺伝型の違いは表現型の違いには結びつかない(巷間いわれている血液型による性格の違いに科学的根拠はない)が、なかには、微妙な遺伝子の配列の違いが、明確に体質や性質の違いとなっている場合がある。 たとえば神経伝達物質やその受容体の遺伝子には、たくさんの多型がある。ドーパミンD4受容体や、セロトニントランスポーターには有名な多型が知られている。このような多型は特定の疾患へのなりやすさや、個人の性格にも影響を及ぼしていると考えられている。本文中で述べた時計遺伝子の多型も、そうした多型の1つである。 とくにたった1つの塩基の違い(一塩基多型)が、このような違いをもたらす場合がある。これは遺伝的にもたらされる「個性」の、「最小の単位」ということになる。 将来は多型の分析が進み、こうした多型から生じる個人差を考慮した医療、いわゆるテーラーメード医療が行われるものと考えられている。

Q. 動物の睡眠はヒトと同じ?
A. ヒトの睡眠と同じと言ってさしつかえない厳密な意味での睡眠は、すべての哺乳類と鳥類に認められる。定義を拡大すれば、爬虫類やその他の下等動物にも、休眠状態とよばれる睡眠と言ってよい状態が認められる。昆虫にも睡眠があると考えている研究者も多いが、哺乳類や鳥類の睡眠とはかなり機構的に異なっているようである。とくに、レム睡眠とノンレム睡眠の区別がみられるのは哺乳類と鳥類であると考えられている。ただし、最近ではワニなど一部の爬虫類の睡眠にも、レム睡眠に似た状態が存在することも示されている。 睡眠時間は、種によって実にさまざまである。コウモリや、オボッサム、ライオンなどは、平均して1日18時間から20時間眠るとされる。しかし、ウマやキリンなどの大きな草食動物は3時間以下しか睡眠をとらない。また、こうした草食動物の多くは立ったまま眠る。一般的に、被食者になりやすい動物は、捕食される危険を避けるために睡眠時間を少なくする必要があり、さらに身体の大きな草食動物の場合は、食事に必要な時間が長いため、睡眠時間は少なくなるという岫向かある。これらは睡眠と摂食行動との密接な関係を示唆している。また、被食者になりやすい動物は、まとまった睡眠をとると狙われやすいため、こまめに睡眠をとる傾向にある。ネズミなどは夜行性であるが、昼間もずっと寝ているわけではなく、数分から数十分の睡眠を何回もとるのである。 さらに特殊な睡眠をとるのは、水中に悽む哺乳類である。水中でうたた寝をすることは、溺死につながる。そこで、イルカは非常に特殊な睡眠を進化させてきた。イルカは泳ぎながら眠ることができる。バンドウイルカは、、度の睡眠では片側の大脳半球のみが眠る。つまり交互に大脳半球が眠ることによって、どちらかの脳は覚醒した状態を保ったまま睡眠をとっているのだ(牛球睡眠)。右の脳が睡眠状態になると左目を閉じ、逆に右目を閉じているときは左の脳が睡眠状態となる。こうして、睡眠をとっている間も泳ぎつづけることができるのだ。もちろん、両方の大脳半球とも覚醒しているときもある。また、インダスカワイルカは、数秒間の睡眠(マイクロスリープ)をとりながら、1日7時間の睡眠を確保しているという。 長期間にわたって飛びつづける渡り鳥も、半球睡眠をすると考えられている。脳が交互に眠ることで、飛ぶという行動をとりながら眠ることができるのである。ある種の鳥は、ときどき急降下し、再上昇することを繰り返すという。この急降下のときに睡眠をとっていると考えられている。

実は、半球睡眠はイルカや渡り鳥だけではなく、キリンにもみられるという。キリンはきわめて長い首をもっているため、横になると立ち上がるのが困難である。横になって眠っていたのでは、外敵に狙われたらひとたまりもない。そこで、立ったまま半球睡眠をとっているらしい。キリンの睡眠時間はきわめて短いとされていたが、半球睡眠をとっているとしたら、従来考えられていたよりもずっと長く眠っている可能性もある。 また、ヨーロッパアマツバメは、8月に北ヨーロッパを出発して西アフリカ経由で中央アフリカの熱帯雨林まで移動するのだが、10カ月後の次の繁殖期に戻ってくるまで.度も着地しないという。その間、3000メートル近い上空まで上昇し、滑空しながら下降する際に、睡眠をとっているのではないかと想像されている。そのほか、グンカンドリも、滑空しながら眠ることか知られている。 これらの特殊な例からも、高度に発達した脳をもつ動物にとって睡眠は、決して省くことのできない重要な機能であることか再確認できるであろう。 なお、クジラの睡眠を詳細に調べたという研究はないが、マッコウクジラはおぼれないように垂直に近いかたちに身体を立てて、鼻先を海上に出して眠るらしい。どんなに無理をしてでも、どんな危険を冒してでも睡眠を省くことはできないのだ。

Q. 人が成長するにつれて睡眠はどう変わる?

A. ご存じのように新生児は、ミルクを飲むとき以外は、ほとんど眠って過ごす。そして3〜4時間ごとに目を覚ますので、お母さんは忙しい思いをする。睡眠/覚醒のリズムが明確になるのは生後2〜3ヵ月くらいである。発達するにしたがって、だんだんトータルの睡眠時間が減っていき、覚醒する時間が良くなるとともに、連続して睡眠をとる時間も長くなっていく。1歳くらいになると、夜眠ると朝まで眠ることかできるようになる。つまり、睡眠/覚醒の各相がだんだん安定化していくのである。幼稚園に通いはじめるくらいまでの間は、昼寝を必要とすることが多いが、その後、昼間はずっと覚醒しているようになる。 また、小児では、第4段階の深いノンレム睡眠の時間が良く、睡眠の後半でも第4段階のノンレム睡眠が認められることが多い(成人では睡眠が進むにつれ深い眠りが少なくなるので、睡眠の後半に第4段階のノンレム睡眠がみられることは少ない)。さらに、レム睡眠の割合も非常に高い。これらのことは、小児の脳の発達には深いノンレム睡眠と長いレム睡眠が必要であることを示している。小児期には脳のシナプスの再編かさかんに起こっていて、睡眠はそのために必要なのかもしれない。 ところで成人はレム睡眠では夢を見ていることが多い。では、赤ちゃんも夢を見るのだろうか?さらに、胎児は夢を見るのだろうか? 新生児の睡眠時間は約16〜18時間といわれるが、実はそのうちの半分はレム睡眠である。さらに遡って、妊娠後期の胎児では、ほぼ24時間睡眠の状態にあると言っていいが、その大半で脳はレム睡眠様の状態にある。これは、コリン作動性ニューロンのほうがモノアミン作動性ニューロンよりも早く発達することに関連する(レム睡眠はモノアミン作動性ニューロンの助けなしに、コリン作動性ニューロンが大脳皮質を賦活している状態であることを思い出していただきたい)。しかし、レム睡眠だから夢を見ているとは限らない。夢は主観体験であり、胎児や乳児にそれを間くことはできないから確かめることは不可能だが、夢の材料は記憶であることを考えればブ記憶の蓄積がない胎児がもし夢を見ているとしても、われわれの考える夢とは別のものであろう。 話を睡眠の発達に戻そう。思春期の睡眠時間は平均8時間ほどであり、これ以降、歳をとるにしたがって睡眠時間は減る傾向にある。また、質の面でも変化がみられ、歳をとるにしたがい、深い睡眠が少なくなっていく。60代以降になると第4段階のノンレム睡眠はほとんどみられなくなる。このように胴の成長および老化にともない、睡眠の必要性が少なくなっていく。これは、睡眠と脳の発達が関係していることを示唆している。

Q. なぜ眠らなければならない?

A. なぜ睡眠が必要かについては、いまひとつすっきりしないという人も多いと思う。実は、これは睡眠科学にとって、究極の問いともいえる難問である。かつて著名な睡眠研究者であるデメントは「なぜ眠るのか?」との問いに、「私が知るかぎりでは、はっきりしているのはただ1つ、眠くなるから眠るのだ」と答えたそうである。長年にわたり睡眠を洞察してきた彼ですらこう答えなくてはならなかったということだ。 考えてみてほしい。「なぜ食べるのか?」という問いに対する生物学的な答えは、「お腹が減るから」でもなければ「おいしいから」でもない。「エネルギーを摂るため」である。睡眠においてもこうした明確な答えはないものだろうか。 これまでしばしば述べてきたように、睡眠中に何か起こっているか、確実なところはわかつていないのが実情だ。睡眠を断つことによって起こってくる変化は、視床下部による恒常性機能の異常だ。つまり睡眠は視床下部機能の維持に関わる。レム睡眠中にみられる自律神経系の変動は、まるで自律神経の機能のセットポイントを校正しているかのようにもみえる。一方、睡眠は記憶を強化することもわかっている。しかし、では脳内のどのような変化が、こうした作用に関与しているのだろうか。 先に紹介したようにトノーニらは、睡眠中にシナブスの刈り込み(必要のないシナプスを取り除くこと)やシナプスの新生が起こっていて、これが学習に大きく影響していると考えた。しかし、こうした現象は覚醒時にも起こっていることであり、睡眠がこの現象に必須の状態であることには結びつかない。おそらく、覚醒時に脳が活発に活動しているときとは違った、睡眠中にしかできないかたちでシナプスの変化が起きているのであろう。こうした睡眠中に起こる脳の変化が、記憶の固定や、視床下部の機能の維持、ひいては全身の恒常性の維持にも大きく関与しているはずである。 また、当然ながらレム睡眠とノンレム睡眠に分けて考える必要もある。レム睡眠の機能はさきに述べた夢の機能とも大きく重なってくるはずだ。 レム睡眠のときには認知機能のリフレッシュが、ノンレム睡眠のときには記憶の強化がなされているとの説もある。いずれにしても、それらの現象を説明できるような睡眠中の脳、そしてニューロンとシナプスの形態的・機能的変化を明らかにし、そうした改変作業をするためにどうして睡眠が必要なのかが理解できたときに、本当の答えか明らかになるだろう。 はっきりしているのは、睡眠は「脳のメンテナンスのために必要」ということだ。そのメンテナンス過程の詳細を知ることか、睡眠科学の次の課題である。 だが、これでもまだ釈然としないという人のために、終章では「なぜ眠るのか」という問いに対する筆者なりの仮説を述べてみたい。

コラム15
体内時計

地球上のほぼすべての生物は、地球の自転の周期、つまり24時間を計るための体内時計をもっている。この体内時計によって睡眠・覚醒だけでなく、ホルモン分泌、血圧・体温調節などの生理活動が制御されている。生物は、時刻によって変化する外部環境にできるだけうまく適応するために、遺伝子発現や生理活動を時刻ごとに適正な状態にしようとしているのだ。 その時計の本体は、時計遺伝子とよばれる複数の遺伝子がフィードバックシステムを使って、24時間周期の振動をつくりだすというものだ。 これらの時計遺伝子の産物には次のようなものがある。ポジティブ因子であるCLOCKとBMALIという分子が結合して、ネガティブ因子であるPER、CRYという分子の転写を促進し、PERとCRYは、それら自身の転写を抑制するというメカニズムで、約24時間のリズムをつくると考えられている。ヒトの身体は約60兆個の細胞からなるが、生殖細胞をのぞき、すべての細胞が体内時計をもっていると考えられている。そして、脳の視床下部の一部である視交叉上核にマスタークロックがあって、全身の時計を同調させている。一般的に体内時計といえばこの視交叉上核をさす場合が多い。

視交叉上核は網膜の特殊な神経節細胞からの入力を得ていて、毎日のように光によって同調される。視神経の分枝が視交叉上核に投射していて、光の信号を送っているのだ。このメカニズムにはメラノプシンという分子が関わっている。

なぜ眠るのか?

ここまで、睡眠を断つとどのような変化が起こるのか、睡眠中の脳や身体の機能はどのようになっている
のか、そして、睡眠と覚醒を切り替える脳のしくみ、覚醒を維持する脳のしくみについてみてきた。
これらのことをふまえて、「なぜ眠るのか」という問いに対しての、私なり
の仮説を述べてみたい。
その前に、「睡眠の正体」をまとめてみよう。
①睡眠を奪うと精神の変調がみられる
②睡眠を奪うと視床下部の恒常性維持機能の失調かみられる
③睡眠は記憶を強化する
④睡眠は絶対にとらなくてはならないものだか、ある程度の柔軟性もある
⑤ノンレム睡眠とレム睡眠では大脳皮質の活動パターンが大きく異なる
⑥レム睡眠では大脳辺縁系の強い活動が観察される
⑦ノンレム睡眠の深さと長さは、直前の覚醒時の脳活動の強さと長さに影響を受ける
⑧覚醒とノンレム睡眠、レム睡眠は脳幹の広範投射系によって制御されている
⑨広範投射系は視床下部の視索前野のGABA作動性ニューロンと、外側野のオレキシン作動性ニューロン
によって制御されている

混同されがちな2つの問い
以上のような事実をもとに、筆者なりの仮説を述べてみよう。
ポイントは、多くの場合に混同されて一緒に詔られてきた、2つの事項を分けて考える必要かおることだ。
それは(1)睡眠を必要とする脳の機能と、(2)「眠気」を感じるメカニズムの2つである。この両者が同じであるという必然性はまったくない。つまり、情報処理機構である大脳皮質が睡眠を必要としていたとしても、大脳皮質自身がそれを直接感じるセンサーである必要はないということだ。
たとえば摂食行動を制御する視床下部のメカニズムは、全身のエネルギーの過不足を脳内に伝えるメカニズムが中心である。「エネルギー補給」を必要としているのは全身であり、視床下部ではない。とすれば、睡眠についても、大脳皮質が「睡眠によって得られる何か]を必要としていたとしても、それを感じとるのは
大脳皮質そのものではなく別の部位であってもおかしくない。それは恒常性の維持機構である視床下部かもしれない。
例をあげれば、アデノシンなどの物質を脳内に投与すれば眠気が引き起こされるが、これは本当に睡眠を必要としているからではなく、「睡眠不足」の指標をくるわせて、脳をだましているのだといえる。そして、アデノシンを感知するのは視床下部の一部である視索前野である。これは摂食行動において、ニューロペプチドYという物質を投与すると動物は飢餓感を感じて満腹でもガツガツと食べるのと同じだ。
つまり「なぜ眠るのか」という問いは、(1)「なぜ眠る必要があるのか」という問いであるとともに、
(2)「なぜ眠気を感じるのか」という問いでもある。実は両者の本質はまったく異なる。どちらも脳にまつわることだからこの両者を混同しがちだが、これらは分けて考える必要があるのだ。
また、ノンレム睡眠とレム睡眠はまったく別の状態であるから、それぞれには明確に違う役割があるはずだ。

ノンレム睡眠についての仮説

(1)の「なぜ眠る必要があるのか」という問いを先に考えてみよう。これは、「眠っている間に脳は何をしているのか、そしてそれをするためになぜ眠る必要があるのか」という問いであろうから、これについて考えてみよう。
まず、ノンレム睡眠はどうだろうか。ノンレム睡眠を必要としているのは、主に大脳皮質である可能性が
高い。なにしろスローウェーブをつくりだしているのは大
脳皮質なのだから。そこで、「大脳皮質が必要としている、ノンレム睡眠中にしかできない作業」は何であるか考えてみよう。
ここで、さっき述べたトノーニらの説は魅力的だ。つまり、覚醒時に大脳皮質が活発に活動することにより、大脳皮質のニューロン間のシナプス強度が全体的に上がることが睡眠負債であり、睡眠時には、不必要な(重複した)シナプスが削除され、必要なシナプスが残されることによって、脳内のシナプスが「最適化」され、脳全体のシナプス強度は元に戻るというのだ。 たしかに私たちは日常、おびただしい量の情報を受け取り、脳に蓄えている。それはシナプス伝達効率の変化や、シナプスの構築の変化、シナプスの新生に結びつく。シナプスの変化は分単位で、われわれの想像よりはるかに遠く起こっている。毎日、途方もない情報が脳に蓄積していったら、それらは脳の記憶容量を考えても情報災害になるのではないだろうか?「記憶」という情報整埋か必要な理由は、脳のもつ記憶のファイルシステムの特性にもよる。私たちが思考を巡らせているとき、連想される事項が次々と脳裏に浮かんでくることを思いだしてほしい。私たちの記憶は、さまざまな事項の間の、いろいろなタイプの関連をもとにファイル分けされているようだ。しかし、この連想が不合理なかたちで起こってしまったらどうなるだろう?因果関係のないものを結びつけてしまい、支離滅裂な思考に支配されかねない。関達のないものを結びつけたり、あるいは関連のある事項に気がつかなくなったりするのは、ある種の精神疾患の特性でもある。 もしかしたら、トノーニのいうノンレム睡眠中のシナプスの強度の低下は、こうした連想を弱めることによって健全な精神を保つ役割をはたしているのかもしれない。つまり、脳はノンレム睡眠のときに情報の収集を停止することによって、シナプスの新生を避け、その状態でシナプスの最適化を行っているのだろう。 この仮説は、睡眠が精神の健康を保ち、記憶を強化することを説明できる。さらに、脳内の細胞外に溜まった有害な老廃物の除去は、近年、ぶyリンパティックシステム〃として知られるようになった機構により、血管の周りの空間を流れる脳脊髄液によってなされているのだが、これは主にノンレム睡眠中に起こるとされる。ノンレム睡眠中には、情報の整理とともに、情報処理環境の整備も行われており、脳の機能を正常に保っているのだと思われる。

レム睡眠についての最近の仮説

では、一方のレム睡眠の役割はなんだろう。 おそらくそれは、ファイルシステムの整理ではないだろうか。レム睡眠時に大脳辺経糸が活発に働いているのは、記憶の重要性に重みづけをしているのではないだろうか。 もともと大脳辺縁系の情動システムは、情報にどれだけの重要性があるかを判断するシステムであると言ってよい。レム睡眠中、海馬と扁抗体を駆動させて何かをやるとしたら、それは記憶の重要性に応じた重みづけと整理にほかならないのではないだろうか。たとえてみれば、ファイルを階層化し、サムネールをつける作業ともいえる。それか意識に上った場合に、夢という主観的な体験になるのだろう。 大脳辺経系がレム睡眠中に賦活していること、あるいは、レム睡眠時には夢をさかんに見ていることから、以前は、レム睡眠こそ記憶の固定・強化に重要だと考えられていた。ところがその後、記憶に関してはノンレム睡眠の重要性を示すデータが多く示されてきたのだか、最近再び、レム睡眠も記憶に関わっているという研究報告かされるようになってきている。やはりレム睡眠も、脳という情報処理システムが情報を整理する際に、ノンレム睡眠とは別の形で関わっているのだろう。その機能は、記憶自体の固定というよりも、ここで述べたような記憶に対する重みづけや、取り出しやすさに関わる機能であろうと想像される。 そしておそらく同時に、視床下部の恒常性機能のメンテナンス(おそらくセットポイントの枚正)も、レム睡眠のときに行われる。自律神経系に大きな変動が起こったり、体温調節機能が停止したりするのはそのためだ。

眠気を生みだしているのは何か
それではもう一方の問い、(2)の「眠気」を感じるモニターとなるシステムは何なのだろうか?
(1)の問いへの答えが前述のようなものだとするならば、大脳皮質がシナプスの最適化などを必要としてい
るかどうかをモニターしているシステムがあるはずである。それはアデノシンかもしれないし、ほかにもっと巧妙なメカニズムがあるのかもしれない。そして、眠気に影響を与えるのは脳の状態だけではない。全身の疲労状態もまた、影響を与える。そのセンサーのある場所としてもっとも可能性が高いのは視床下部であろう。視床下部の命令が脳幹の広範投射系を介して睡眠と覚醒をコントロールしていることを思いだしてほしい。 また、視床下部は食欲や性欲など基本的欲求の中枢でもある。そして睡眠欲も基本的欲求の1つだ。「睡眠欲」の中枢が視床下部にあることは理にかなっている。視床下部は脳を含む全身の状態をモニターしている場所だからだ。 そして視床下部では多くの場合、欲求を摂食中枢と満腹中枢というように、相反する機能をもつ中枢によって制御している。睡眠と覚醒も、視索前野の睡眠ニューロンとオレキシン作動性ニューロンという2つの相反する機能が制御している。先程は、これをシーソーの形でとらえた。脳幹の覚醒システムからみれば、視索前野の睡眠ニューロンはこれを抑制するブレーキであり、オレキシン作動性ニューロンはアクセルといえる。逆にオレキシン作動性ニューロンの活動低下は、モノアミン系の活動低下につながり、シーソーを睡眠側に傾ける。 とすれば、視索前野/オレキシン作動性ニューロンがある視床下部外側野が、脳、あるいは全身の状態を感知して眠気を生みだしているのではないだろうか。つまり、オレキシン作動性ニューロンの活動を高めるような情動の発動や、血糖値の低下を感知すれば眠気を少なくし、逆に血糖値が高くなったことを感知すれば眠くなる。祖宗前野の睡眠ニューロンを刺激するアデノシンなどの物質が増えれば、やはり眠くなるわけだ。 ここで述べたのは眠気の「センサー」としての機能であり、実際に眠気を認知するのは前頭前野など注意や認知に関与する部分であろう。つまり大脳全体の睡眠負債はおそらく何らかの方法で視床下部に伝えられ、その情報はさらに前頭前野を中心とした大脳皮質に戻されているはずだ。 ナルコレプシーという疾患の患者は、日中にときおり強烈な「眠気」に襲われ、そのまま眠りに落ちてしまうことが多いが、これは決して、睡眠負債がたまって眠気を感じているのではないと考えられることに注目したい。睡眠を十分にとっているにもかかわらず、ときに強烈な眠気が襲ってくるのだ。ナルコレプシーは視床下部に存在するオレキシンを産生するニューロンが死滅してしまうことによって起こる疾患である。そして、オレキシンが主に制御しているのは、脳幹に存在するモノアミン作動性ニューロン群だ。これらモノアミン作勤仕ニューロン群は、前頭前野を含む大脳に、広く軸索の投射を送っている。
以上のことから、モノアミン作動性ニューロンの一過性の機能低下が、主観的な眠気を生みだしているのだろう、というのが筆者の考えである。

2つの問いは無関係かもしれない

(1)、(2)の問いに対しての私なりの仮説を述べてみた。だが、さらに極端なことをいえば、「大脳皮質が必要とする、睡眠をとらないとできないこと」と、「眠気を感じるメカニズム」はまったく無関係であってもかまわないのである。 つまり、眠気をコントロールするシステムは大脳皮質とは無関係に、定期的に眠気を発動していて、大脳皮質はそのタイミングを利用してシナプスの最適化をやっているにすぎないのかもしれないということだ。 もちろん、大脳皮質が要求する睡眠の必要度を適切にモニターするシステムになっていれば、それに越したことはない。その要求を伝える分子としては、アデノシンは候補のIつであるが、未知のファクターも介在するだろう。 おそらく眠気を感じるシステムは、視床下部を介して「主観的な」眠気をつくりだすと同時に、脳幹の覚醒システムを抑制して眠りをつくりだす働きをもっているのだろう。このことにより、動物は安全の確保など、眠るための準備をすることができる。そして、一度眠りに入ってしまうと、睡眠の必要量じたいは、先に述べたシナプスの最適化を行うための作業量によって決められる。だから、脳のよく使った部分ほど深い眠りがみられるのだ。

あとがき

マルセル・プルーストはその作品『失われた時を求めて』のなかでこう害いている。「睡眠のなかで私たちに明らかにされるのは幼年への回帰であり、過ぎ去った歳月と失われた感情の再把握であり、魂の分離と転生であり、死者の喚起であり、狂気の幻想であり、最も原始的な自然界への後退である」 やや夢から得た直観的なイメージに偏っている感もあるが、記憶や感情に目をつけているのはさすが慧眼というべきだろう。 脳を成長させ、有効に使うために鍵となるのは、日々のたゆまぬ努力と、よい睡眠だと私は考えている。ヒトはその高度な精神活動と創造力によって文明を築き上げ、数々の芸術を造し、科学を発展させてきた。鍛錬によって驚くべき技も身につけることができる。これらを可能にしているのは、成長する脳の機能である。ヒトの脳こそはこの地球上に存在するもっとも高度な構造物と言ってもよい。これほど高度で複雑な機能をもつものが、メンテナンスを必要としないはずかない。そのメンテナンス過程こそ睡眠なのである。 古来、人々は睡眠と夢の神秘に目を向け、その不思議な現象に思いをはせてきた。それは数々の芸術作品にも反映されてきている。しかし、残念ながら私たちが生きる現代において、人々は眠りに目を向けることが少なくなっている。それも一般の人にかぎった話ではなく、専門家にすらあてはまる。 たとえば現在の医学教育では、睡眠障害の講義に割かれる時間は非常に少ない。そして何より、睡眠の研究に携わっている神経科学者がとても少ない。睡眠に関する基礎研究をしているグループはわが国では数えるほどしか見当たらないし、世界的にも非常に限られている。配分される研究費も少ない。専門家でさえも睡眠には意識があまり向いていないのだろうか。その.方で、睡眠不足は社会に想像以上の打撃を与えているというのに、である。 睡眠の科学に魅力がないのだろうか。そんなことはあるまい。本書でも述べたように、睡眠はまだまだ謎につつまれている。未知のメカニズムを解明していくことにこそ、科学の醍醐味はある。その意味で睡眠には研究者の興味を惹く要素があふれているはずだ。「睡眠」は、脳の機能を支えるために必須の機能である。睡眠を考えることは、脳の機能を考えることと深く密接に結びついている。「眠らなくてはならない」というのはある意味で、「脳の弱点」といえるかもしれない。そして、その弱点は、脳というシステムそのものの作動原理と深く関係しているに違いない。こうした観点から私は「睡眠中に脳が何をしているか」を解明できれば、脳の作動原理といえる何か重大なものを見つけることができると考えている。 本書では睡眠以外にも、脳のもつさまざまな職能をコラムなどの形で紹介したが、それは睡眠を語るうえで必然であったからでもある。このことからも、睡眠があらゆる脳機能のもとになる根本的なシステムと、密接に関わっていることがわかる。逆に、脳の機能を洞察するときに睡眠を考えないことは、大変なヒントを見逃していることになるかもしれないのだ。 また、睡眠と覚醒の制御機構には、情動、意識、注意などさまざまなシステムの理解に役立つ知見があふれていて、ヒトの心のメカニズムや精神疾患の原因などの解明への光を点すことにつながる可能性もある。現代人に睡眠のもつパワー、睡眠の重要性、そしておもしろさを理解していただき、ヒトにとって睡眠がいかに大切なものであるかを理解してほしいというのか、このブログを書くうえでの願いであった。 眠っているとき、あなたの脳の中で、何か行われているのかはまだ明確なかたちとしては見えていない。しかし、何かすばらしい作業が行われているに違いないことは、おわかりいただけただろうか。

デパス(エチゾラム)の通販サイトは、こちら↓

お薬館

コメントを残す